阿弥陀如来が西方極楽浄土の教主なら、薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主で、人々の病を直す仏様とされている。
薬師堂は、日光院の前身である石原山帝釈寺の時代は、全山の総本堂で、七間四方の大きなお堂であった。
寛永九年(1632年)に日光院が妙見山中腹に移った後の享保四年(1719年)に、元の大きさの四分の一で再建された。
三間四方の簡素なお堂である。中を窺うと、華麗な彩色が施された宮殿があった。
東方浄瑠璃世界に相応しい空間だ。
薬師堂の隣には、お地蔵様の石像が数多く集められ、置かれている。
よく見ると、石像には丁数が刻まれている。
今の日光院がある場所は、江戸時代には成就院という塔頭だった。ここから江戸時代に日光院が置かれていた現名草神社までの距離を示す丁石として、これらの地蔵像が置かれていたのだろう。
ということは、これらの地蔵像は、明治の廃仏毀釈で日光院が名草神社になった際に撤去され、ここに集められたのだろう。
さて、護摩堂の背後には、妙見大菩薩の秘仏を祀る妙見尊本殿がある。
この本殿の彫刻群が見事であった。ここにも丹波国柏原の彫刻師一族、中井権次一統が彫った作品があった。
こんな宝物のような建物がここにあるとは思わなかった。
しかし、夜空を見上げれば、いつも北の空に妙見大菩薩と同体の北斗七星が見えるのだから、公開する必要もないのかも知れない。
昔の人々は、現代人以上に星空を注意深く観察し、その神秘と驚異に打たれていたことだろう。