以前の因幡の旅で、宿場町の用瀬(もちがせ)を訪れたが、前回訪れることが出来なかった史跡に行くため、再度用瀬を訪ねた。
私が再度用瀬を訪れたのは10月17日で、残念ながら大雨の日であった。この日、寒冷前線が日本列島を覆い、気温が一挙に低下した。夏から秋を飛び越していきなり冬が来たかのような天候の急変であった。
最初に訪れたのは、鳥取県鳥取市用瀬町別府にある、もちがせ流しびなの館である。
用瀬の町並みは、千代川沿いに並んでいる。千代川では、毎年旧暦3月3日に流しびなの行事が行われる。
もちがせ流しびなの館は、この行事の資料や各時代のひな人形などを展示する資料館である。
流しびなは、男女一対の紙雛を、桟俵(さんだわら)に載せ、菱餅や桃の小枝を添えて川に流す行事である。
一年間の人間の心の汚れや禍ごとなどを雛に託して清らかな川に流し、一年間の無病息災を願う意味がある。
なかなか風流な行事で、かつては日本中で行われていたが、段々衰微して、今ではほとんど行われなくなった。
ここ用瀬では、今でも毎年流しびなの行事が行われ、「用瀬のひな送り」として鳥取県無形文化財に指定されている。
人形を自分の身代わりにして川に流し、罪穢れを落とすという風習は、遠く平安時代の形代・人形流しに起源を有するそうだ。
かつては、木製の人形を川に流して、自らの罪穢れを一緒に流した。それが用瀬では、江戸時代になって、風流な流しびなとなった。
麗らかな春の日に、清流の上を遠ざかる流しびなを見送ると、気分も晴々とすることだろう。
もちがせ流しびなの館は、雛人形の展示資料館としては、日本有数の規模であると思われる。
流しびなの館に展示されている人形を見ると、雛人形の歴史を辿ることが出来る。
雛人形の起源となるのが、平安時代に登場した天児(あまがつ)、這子(ほうこ)である。
天児、這子は、幼児の災厄を払うものとして登場する。
天児は日本人形の、這子は縫いぐるみの起源とされている。
江戸時代に入ってひな祭りが盛んになると、天児を男雛、這子を女雛として雛段に飾ったりするようになった。
江戸時代初期には、紙雛が、天児、這子の形を基本として登場する。
享保年間(1716~1736年)になると、雛が髪を蓄え、金襴や錦の装束を着るようになる。
江戸時代中期の9代将軍家重の時代、宝暦、明和年間(1751~1771年)ころに流行したのが、京都の人形師、雛屋次郎左衛門が考案した次郎左衛門雛である。
丸い顔に引き目、鈎鼻という特徴ある顔つきで、一般に流行した。
明和年間から流行しだしたのは、平安朝の風俗と江戸時代の好みを織り交ぜて作った華麗な古今雛である。
男雛は黒綾の束帯姿、女雛は裳唐衣に宝冠姿となる。皇族か公卿の姿だ。
明治時代の内裏雛は、この古今雛の姿を踏襲している。
こうして見ると、江戸時代中期~後期の古今雛の時代に、現代に繋がる雛人形の形が成立したのが分る。
私が子供のころ、私には姉がいたものだから、3月3日には両親が小さいながら雛人形を部屋に飾ってくれたものだ。
昭和50年ころの雛飾りが展示してあったが、丁度私の子供のころの雛飾りで、見ていて懐かしい気がした。
雛飾りには、このような雛段に飾るだけでなく、御殿飾りと言って、御殿建築の中に雛人形を飾るものもある。
現代では、雛人形を飾るという習慣が徐々に失われつつある。昔は祖父母が孫のために雛人形を買ったものだが、今ではゲーム機やスマートフォンを買い与えるのだろう。
雛人形を作るのにも高度な職人技が必要だ。流しびなの館では、雛人形の制作過程も展示してあった。雛人形の需要が失われれば、それらの技術も失われるかも知れない。
流しびなの館の展示室の入口には、今上天皇、皇后両陛下の即位正殿の儀をモデルとした立雛が展示してあった。
雛飾りは、「源氏物語」が象徴する王朝文化への憧れから、江戸時代になって武家や商家の間で流行しだした行事だろう。
雛飾りの人形は、皇族や公家の人々を表しているものである。
言うなれば古代からの日本の支配層を人形で表していることになるが、それがひな祭りの日に人々が憧れる存在として飾られるということはどういうことを意味するのだろう。
共和制の国の大統領夫妻の人形や、独裁制国家の独裁者夫妻の人形を、それらの国の国民が祭日に飾るということは考えにくい。
古代からの政治体制の永続が、めでたさの象徴になる日本という国の国柄の不思議さを考えた。