八木城跡のある城山の北側に、八木氏の菩提寺だった今滝(こんりゅう)寺がある。ここは真言宗の寺院である。
一時は9院3坊が並ぶ大寺院だったという。
細い山道を車で登って行くと、今滝寺の石垣が見えてくる。その先には山門がある。
今滝寺の山門には、鎌倉時代に造られた二体の木造金剛力士立像が安置されている。
金剛力士立像の体内には墨書の文字があり、正嘉二年(1258年)三月に常光寺の仁王像として造られたことが書いてあるそうだ。
常光寺も八木氏の菩提寺であった。
この金剛力士立像は、永和四年(1378年)に常光寺から今滝寺に移されたという。
像はヒノキ材を用いた寄木造である。頭が大きく胴が長い素朴な作風のため、地方で作られたものだと言われている。
兵庫県指定文化財だが、これほど古い仁王像が、国指定重要文化財にならないのは、後世に補修した跡が目立つからだろう。
今滝寺の山門を観てから本堂を探したが、最初はなかなか見つからなかった。山門から見える廃屋の奥に本堂があった。
本堂はアルミサッシの窓があって、それほど古い建物には見えない。住職が常駐する寺ではなさそうだ。かつての大寺院の面影はない。
私が訪れた時、お寺の関係者か分らぬが、草刈をしていた。寺を美しく維持するのも大変である。
ここから国道9号線を西に走り、但馬の奥地に入っていく。そして養父市葛畑(かずらはた)にある荒御霊(あらみたま)神社を訪れた。
この神社の境内には、葛畑農村歌舞伎舞台がある。
葛畑農村歌舞伎舞台のパンフレットを見て驚いた。まだ戦国の世の天文十三年(1544年)に、荒御霊神社の境内に芝居堂が建てられたという。
まだ歌舞伎が形を成していない時代である。果たしてこの時代にここで何が演じられていたのだろう。
明治3年、江戸時代末期に大坂の芝居小屋で歌舞伎役者として修業した葛畑出身の藤田甚左衛門が帰郷し、上方の歌舞伎を地元農民が演ずる葛畑座が結成された。
明治25年、大阪の舞台建築技術を学んだ村人が総出になって葛畑芝居堂を改修し、現在の葛畑農村歌舞伎舞台が出来上がった。
廻り舞台、花道、太夫座を備え、二重台の背後の襖が90度回転して背景画を見せる田楽返しの仕掛けもある。
葛畑座は、地元の神社の祭礼で上演するに留まらず、周辺の村々で公演を行うなど、昭和初期まで盛んに活動を行ったという。
昭和39年と41年の二度、復活公演が行われたが、その後公演は一度絶えてしまった。
平成11年の村祭りに、播磨農業高校の生徒を招聘し、ここで播州歌舞伎を上演したことがきっかけで、徐々に公演復活の機運が高まり、平成15年以降は毎年公演が行われているという。
葛畑は、但馬の奥にある農村だが、村に古くから伝わる文化が、一度絶えながらも復活したことは喜ばしいことだ。
葛畑農村歌舞伎舞台は、国指定重要有形民俗文化財となっている。
葛畑から更に奥に進むと、冬はスキー場となる東鉢伏高原に至る。
地名で言うと、養父市別宮(べっく)になるが、スキー場関連のペンションや飲食店が並ぶ一角に、別宮家野遺跡がある。
別宮家野遺跡は、昭和44年に発掘された縄文時代早期から前期の遺跡で、土器や石器、炭化した木の実などが見つかった。
兵庫県の縄文遺跡としては、最古の時代の遺跡であるという。
縄文時代早期が今から約11500年前から約7000年前、前期が約7000年前から約5500年前だから、相当な昔だ。
遺跡があった場所は、今は草むしたただの空き地である。
この辺りは標高約700メートルの高原で、冬は積雪するような場所である。
縄文時代前期は、今よりも気候は温暖で、海水面の高さも今より4~5メートル高かったらしい。
その当時は、この高原も今よりは暖かく、木の実や野生動物も豊富で住みよかったのかも知れない。
現在温暖化を防ぐための脱炭素が言われているが、かつて今よりも温暖な時代があったわけだ。
気候の変動によって、人間の生活習慣や文化も変貌していく事だろう。これからの時代も、変化に富んだ時代となるだろう。