小林家は、第12代藩主青山忠裕に老女として仕えた小林千枝が住んだ家である。
小林家長屋門は、忠裕が千枝の多年の労に報いるため、文化年間(1804~1818年)に修築したものとされている。
この長屋門は、内部に上段の間や物見(見晴窓)のある、住居兼用の建物であるそうだ。
門に掲げられた表札を見ると、小林と書かれており、中からコトコトと音がする。
未だに小林家の子孫が生活しているのだろう。
茅葺、入母屋造で千木と鰹木のある屋根は、縄文時代、弥生時代の竪穴住居から続く典型的な日本の民家の屋根の形式であり、植物と共に生活する我が国の伝統を感じさせる。
小林家長屋門から一つ西の南北道は、御徒士町通りと呼ばれている。現代の地名では、丹波篠山市西新町となる。
徒士(かち)とは、戦場で徒歩で戦った下級武士のことで、近代軍制の下士官に当るとされている。
騎乗を許された上級武士よりは身分が下だが、足軽よりは上とされている。領地を持たず、藩から扶持米という給料を支給された。
御徒士町通りには、この徒士たちの武家屋敷が今もずらりと並んでいる。
並んだ武家屋敷には表札が上がっている。今も徒士の子孫が住んでいるようだ。
通りを歩いて意外に思ったのが、道が広いことである。
御徒士町は、文政十三年(1830年)に大火で焼けてしまった。その後再建されたが、その際に防火のため屋敷を六尺後退させて火除地を作り、各屋敷に土塀を設け、土塀から二間下げて母屋が建てられた。
御徒士町武家屋敷群は、国選定重要伝統的建造物群保存地区となっている。
それら武家屋敷の中で丹波篠山市が管理し、一般に公開しているのが、武家屋敷安間(あんま)家史料館である。
安間家史料館は、大火の後の天保年間(1831~1845年)に再建された建物である。
茅葺の門を潜ると正面にある母屋は、間口六間半(約13メートル)、奥行き七間半(約15メートル)の規模である。篠山藩の標準的な徒士住宅であるらしい。
東側の入口から入ると玄関があり土間がある。土間の天井は木と竹と萱で作られている。
土間には、竈や流しがある。
土間と接続した台所という部屋には、棚があり、接客用の什器類や膳椀類が収納されている。
こうした武士の家には、10客揃、20客揃で什器類が揃えられており、親しい知人・友人たちとの宴席で使用されたらしい。
そんな宴席は、徒士にとって、下級武士社会の中での、ささやかな安らぎの時だったろう。
また土塀と母屋の間には、ささやかな庭がある。
宴席を設け、庭の眺めを楽しむことが出来たのだから、徒士たちは、武士階級の中では下層でも、大半が農民だった当時の日本社会全体の中では、上流の暮らしをしていたであろう。
庭に面した座敷には、当時の篠山藩士の具足が展示されている。
この具足は、安間家のものではなく、篠山藩士だった中山家伝来のものであるらしい。
このような具足は、先祖伝来の大事なものであっただろう。
また、座敷の庭に面した障子の上の壁には、弓や槍が掛けられている。
武家は戦うことが本職の家である。徒士たちも、戦いの事を寸時も忘れないよう幼時から教育されたことだろう。
座敷の奥には、仏間、居間、納戸が続く。
何の飾りもない、質朴な空間だ。好感が持てる。
縁側からは涼しい風が建物に入って来る。
縁側の前には、水琴窟がある。水琴窟とは、地中に伏甕を埋めて空洞を作り、その上に滴った水が空洞に反響して澄んだ音色を聴かせる仕掛けである。江戸時代に考案された。
この水琴窟は、地中に丹波焼の甕が埋められている。丹波水琴窟と呼ばれている。柄杓を用いて水を滴らせると、なるほど美しい音がした。
また、写真撮影出来なかったが、安間家史料館内のショーケース内には、国史や儒学の書物があり、当時の武家の教養が偲ばれた。
私は、今まで史跡巡りを通じて、御殿建築や庄屋の家や農家、商家など、さまざまな建物を見てきたが、これぐらいの下級武士の家が、最も好みに合ってしっくりくる。
武道と学問を両立させ、質朴な暮らしをした下級武士の生活は、理想的な生活なのかも知れない。