淡路市北淡歴史民俗資料館の裏には、18世紀中ごろの民家、旧原家住宅が建っている。
原家は、代々地元で農業を営んでいた旧家で、この家は、第65代衆議院議長原健三郎氏の生家でもある。
旧原家住宅の母屋は、昭和50年にこの場所に移築され、公開保存されることになった。
旧原家住宅の造りは北淡地域に多い茅葺寄棟造りで、四方に本瓦葺きの大蓋(下屋)が付けられている。
入口を潜ると土間があり、壁に古い農機具などが掛けられている。
外で農作業をして土にまみれて帰って来た時に、土間でまず汚れを落とすのは合理的だ。
土間の奥には、竈と流しがある。
今となっては台所に当たり前のようにある水道も、江戸時代には存在しない。流しの脇にある甕に水を貯め、調理や食器洗いの際にそこから水を汲んで使ったのだろう。使った水は流しから床に落ち、床に開けられた穴から外に排出されたのだろう。
土間から屋内を眺めると、畳の部屋がいくつかある。
当時の日本の民家は、日当たりの好い南側に床の間のある客間を置き、北側に家人たちが寝起きしたり食事したりする生活用の部屋を置いた。
どの古民家に行っても土間が東側にあるのは、何か意味があるのだろうか。
流しや竈は土間に作られるが、生活スペースが北側にあるので、自然と調理する竈や流しは北東に作られることになる。
旧原家住宅の南側には、東からヒロシキ、オモテという二部屋がある。オモテには床の間と仏壇があり、家の中で最も格式の高い部屋となる。客人もここに通されたことだろう。
床の間の右側にある障子を開けると、仏壇であった。十三仏と弘法大師と不動明王の掛け軸が祀られた真言宗の仏壇であった。
仏壇の上には、梵字が透かし彫りにされた欄間があった。
淡路は、江戸時代には全島が徳島藩蜂須賀家の領地であった。そのためか、淡路は文化圏としては阿波に近い。四国には八十八ヶ所霊場信仰があり、真言宗の勢力が強いが、淡路も真言宗が強い地域である。
旧原家住宅の北側には、東からカマヤ、オイエ、オクという三部屋がある。カマヤが土間のすぐ側の部屋で、その横のオイエが居間、オクは寝室だろう。
カマヤの手前の板の間に、石臼が置かれていた。最近石造品に妙に心惹かれるようになったが、石臼を見ても何だかいいと思うようになってきた。石臼でも買って、庭にでも置きたいものだ。
居間であるオイエは、囲炉裏を中心にした空間である。
こうした日本の古い民家を見て思うのは、冬は寒いだろうなということである。日本の民家は、暑い夏を過ごしやすくするように工夫されていて、冬の過ごしやすさはそのために犠牲にされている気がする。
さて、旧原家住宅の見学を終え、淡路市育波にある育波堂の前遺跡のあった辺りに行ってみた。
育波堂の前遺跡は、昭和40年に行われた旧北淡西中学校のグラウンド造成工事の際に発掘された遺跡で、縄文時代早期の押型文土器を最古として、縄文時代前期、中期、後期、晩期、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代以後の土器が発掘された。
縄文時代早期は、約12,000年前から始まる。そんな縄文時代早期から平安時代にかけての土器が発掘されたのだから、育波堂の前遺跡は、かなり長く人が居住した集落の遺跡のようだ。
旧北淡西中学校は、現在北淡荘老人ホームになっている。グラウンドは残っていて、片隅に「縄文式土器出土之地」と彫られた石碑が置かれている。
縄文時代は、この日本列島で約1万年以上続いた時代で、天皇家が君臨してからの日本の歴史よりも遥かに長く続いた時代だ。日本の文化の古層は縄文にあるように思う。
縄文時代は、不思議と日本列島全土で共通する文化様式が営まれた。あの複雑な文様の縄文土器が、東北から九州にかけて出土するのだが、なぜ広い列島のあちこちから、あんなに様式が似ている土器が出土するのだろう。
意外と縄文時代の人々は、遠く離れた集落とも交流していたのかも知れない。
縄文時代のことは、もっとよく知りたいと思う。