最盛期の江戸時代中期には40座以上を数えた淡路人形座だったが、江戸時代後期には21座、明治40年には10座、戦後の昭和24年には5座まで減少した。
座の数は減ったが、淡路人形浄瑠璃は、戦後になっても、淡路の娯楽の一つとして人々に楽しみを与えた。
庶民に親しまれた淡路人形浄瑠璃は、野掛け小屋と呼ばれる屋外に設置された舞台で上演された。
野掛け小屋の表側には、絵看板と呼ばれる演目のクライマックスを描いた看板が掛けられていた。
資料館には、実際に野掛け小屋に掛けられていた絵看板が展示してある。
昭和30年代には、まだ家族で淡路人形座の芝居を見に行くという習慣があったようだ。
淡路には、「芝居は朝から、弁当は宵から」という言葉があったそうだ。翌日朝から上演される芝居を一日ゆっくり観るために、前日の宵の内から重箱に弁当を詰めて準備することを指す言葉だ。
当時の芝居の観客が弁当を詰めた重箱が展示してあったが、家族皆が昼晩食べられる量の弁当が詰められそうな大きさであった。
当時の淡路の人たちからすれば、人形芝居は日常を忘れて1日没頭できる娯楽だったようだ。
さて、淡路人形浄瑠璃は、昭和33年にソビエト連邦(ロシア)でも上演された。
ある時、淡路人形都座の解散後、同座で使用されていた人形が東京の物産展で展示された。
その物産展をたまたま見学していたロシア人が、淡路人形浄瑠璃に興味を持ち、ロシアでの公演を持ちかけた。
その呼びかけに淡路源之丞座が応え、昭和33年にモスクワとレニングラードで淡路人形浄瑠璃を上演することになった。
淡路人形浄瑠璃は、現地では、「土の香りのする芸術」と絶賛されたようだ。
三島由紀夫の祖母奈津は、芝居が好きであった。当時は芝居と言えば、歌舞伎、浄瑠璃といった旧劇であった。
奈津は、小さい三島を芝居に連れて行き、三島が芝居に開眼するきっかけを作った人物だが、三島はそんな祖母を回想して、「祖母は芝居を『しばや』と呼んでいた」とどこかに書いている。
「しばや」という言葉には、如何にも昔の人が芝居から感じていた香りが込められている。その香りには、さだめし臭みがあったことだろう。
三島は「芝居には臭みがないといけない」とどこかに書いていた。ロシア人が言った「土の香り」も、この「しばやの臭み」を感じ取った言葉だろう。
さて、淡路人形浄瑠璃資料館を出て北に歩いていくと、北東角に地蔵尊のある変形五叉路がある。ここを西に行くと、突き当りのT字路に倉庫のような建物がある。
この倉庫の北側の空き地の一角に、淡路人形座本の祖、上村源之丞の屋敷跡の碑が建っている。
百太夫の息子、引田淡路掾こと上村源之丞がここに住んでいたようだ。上村源之丞座は、大正時代初頭に徳島に移転するまで、ここを拠点に全国を巡業していたそうだ。
ここから北に約200メートル歩くと、地元の鎮守・三條八幡神社がある。
三條八幡神社の社頭には、淡路人形発祥地の碑が建っている。
淡路人形座の各座は、この神社を崇敬していたことだろう。
三條八幡神社の本殿の脇には、各淡路人形座が守護神として崇めた脇宮戎社が建っている。
昨日の記事でも書いたように、淡路人形の祖は、戦国時代に西宮神社の祭神・戎(えびす)神に仕えた傀儡師百太夫である。
この戎社には、戎神と百太夫、道薫坊、秋葉神を祀っている。
戎社には、左から秋葉神、戎神、百太夫、道薫坊の木像を御神体として祀っている。秋葉神は、百太夫の妻女きくのことだという説がある。
戎神の像は、創建当時の像だと言われている。
人形芝居が繁盛していたころには、毎年正月にこの戎社の前で、上村源之丞座を始め各座が三番叟を奉納し、その年の巡業地割りを行い、巡業出発に際しては、座員一同が成功と安全を祈願したという。
日本の芸能である歌舞伎や浄瑠璃の元になったものは、申楽(能楽)と謡曲である。申楽は、人々が地元の神々に奉納する田楽から発生した。
日本の芸能は、元は神々を喜ばせるために出来たものである。
日本の統治者である天皇家は、神々の子孫とされている。また和歌を最初に詠ったのも、神話では日本の神々とされている。
そう考えれば、日本の政治も文学も芸能も、元は日本の神々から発生したものと言える。