八上城跡 前編

 元々因幡国八上郡の国人であった波多野氏は、応仁の乱で戦功を上げ、丹波国多紀郡郡代となり、丹波に進出することとなった。

 波多野氏は移転先の根拠地に八上の名をつけた。出身地の因幡国八上郡の名を忘れなかったようだ。

 その後、波多野秀通は、永正十二年(1515年)に標高約459メートルの高城山の上に城を築いた。

 それが八上城である。

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高城山

 高城山は、篠山市街の南東に聳える秀麗な山で、その形から丹波富士と呼ばれている。 

 高城山は、篠山の町のどこからでも目に入るが、逆に言うとそこに城を築くと、篠山盆地の全てを視野に入れることが出来るわけだ。

 八上城跡を見学するため、私は高城山北麓にある春日神社の登山口から登ることにした。

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八上城跡の登山経路図

 麓の案内板にある右衛門コースという経路で登ることにした。このコースは、右衛門丸という曲輪に出るコースで、右衛門丸、三の丸、二の丸、本丸という主要な曲輪の全てを通過する。

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麓の春日神社の鳥居

 春日神社の両部鳥居を潜って進むと、道はそのまま登山道となる。

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登山道

 最初、道はなだらかで、杉林や竹林の中を歩くことになる。

 しばらく行くと、主膳屋敷跡という台地が左手に見えてくる。

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主膳屋敷跡

 ここに八上の政庁となる屋敷が置かれていたのだろう。山城は合戦のための備えとして築かれたもので、武士たちは常時城に出勤するわけではない。平時は城に最小限の見張りを置いて、普段は麓の屋敷で仕事をした。合戦に際しては城に籠ることになる。

 ところで先日紹介した青山歴史村の一角に、八上城の屋敷門として使用されていた高城屋敷門が移転保存してあった。

 かつてこの主膳屋敷跡にあった門なのかも知れない。

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高城屋敷門

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高城屋敷門の脚

 八上城は、波多野氏の滅亡後も、明智氏や八上藩前田氏、篠山藩松平(松井)氏の拠点として、慶長十四年(1609年)の篠山城完成まで使用された。

 この屋敷門の脚を見ると、小さな虫食いの穴が開いている。この穴と表面の風化度合いから、かなり古くから使用された木材だと思われる。

 この屋敷門は、波多野氏の時代からのものか、その後の明智氏、前田氏、松平氏の時代のものかは分からないが、八上城にあった建物の中で、唯一現存する貴重なものである。

 この門は、八上城が廃城となった後は、篠山城下の武家屋敷の門として転用され、昭和44年まで篠山郵便局の敷地にあったという。平成10年に現在地に遷された。

 主膳屋敷跡からしばらく歩くと、前田主膳正供養塔が見えてくる。

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前田主膳正供養塔

 前田主膳正は、前田玄以の息子の前田茂勝のことで、慶長七年(1602年)に八上城主となったが、藩政を省みず放蕩し、諫めた家臣に切腹を命ずるなどしたため、慶長十三年(1608年)に幕府から改易とされた。

 先ほどの主膳屋敷跡は、その名から前田茂勝の屋敷跡を指すのかも知れない。

 ここから山道を登って行く。整備された登山道で登りやすい。

 先に進むと、鴻の巣と呼ばれる曲輪に至った。

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鴻の巣

 鴻の巣は、西側に突き出た尾根上に築かれた曲輪の跡である。山の中腹あたりにある。

 木々が生えていて眺望が効かないが、西から来る敵に備えた最下段の曲輪である。

 更に進むと、下の茶屋丸という曲輪跡に出る。

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下の茶屋丸

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下の茶屋丸からの眺望

 下の茶屋丸からは、篠山盆地が一望の下に見下ろせる。八上城跡は、このような曲輪の跡が残されているが、元々城に迫る敵を観察出来る場所に曲輪が築かれているので、曲輪跡からの眺めは好い。歴史好きでなくとも、八上城跡はハイキングコースとして十分楽しめる。

 更に進むと、中の壇という曲輪跡がある。

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中の壇

 中の壇は、平坦な道の途中にある。ほっとした敵を迎え撃った場所だろう。

 また、山の斜面に掘られた竪堀も残されている。

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竪堀の跡

 竪堀は、山の斜面を攻め上がって来る敵兵が左右に展開するのを妨げるための防御機構である。

 ここを過ぎて歩いていくと、馬の背のような尾根の上を行くようになる。

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尾根道

 こういう尾根道を歩くと、「ああ、山城を歩いているなあ」という気分になる。

 更に上がると、上の茶屋丸という曲輪の跡がある。

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上の茶屋丸

 八上城は、最終的に明智光秀が指揮する織田軍の攻撃に晒され陥落するが、戦国時代には、信長登場まで畿内の覇者だった三好家とその家臣松永久秀の攻撃を幾度も受けた。

 この城は、実戦経験豊富な、戦う城だった。

 ひょっとしたら、今まで見た曲輪の上でも、血で血を洗う激戦が繰り広げられたのかも知れない。

 江戸時代に築かれた石垣や天守のある城より、実戦豊富な戦国山城の方が好きである。