寛永九年(1632年)から版籍奉還のあった明治2年(1869年)まで、237年に渡って因幡、伯耆の2ヵ国を治めた鳥取藩主池田家の墓所が、鳥取市国府町奥谷にある。
国指定史跡である。
鳥取藩の初代藩主は、池田光仲とされている。だが光仲の前にも、池田家出身の大名が鳥取藩主を務めていた。
江戸時代を通じて、岡山藩主、鳥取藩主として山陽、山陰の要所を治めた池田家の礎を築いたのは、信長の家臣だった池田恒興の次男、池田輝政である。
輝政は、文禄三年(1593年)に秀吉の仲介で家康の次女督姫を娶った。これにより輝政は家康の外戚となり、秀吉の没後家康に接近することになった。
輝政は関ケ原の合戦後の慶長六年(1601年)に播磨姫路藩主となった。姫路城を大改築し、今に残る姫路城大天守を築いた。
同時期に輝政の弟の池田長吉が因幡鳥取藩主となり、次男の池田忠継が備前岡山藩主となった。
池田家は、同時期に姫路、岡山、鳥取の藩主を務めた。また姫路に巨大な天守を持つ城を築くことを幕府から許可された。いかに池田家に対して幕府の信認が厚かったのかが分かる。
池田家の領地を見ると、徳川家にとっての潜在的な脅威である西の長州毛利家への備えとして配置されたのが理解できる。姫路城はそのための拠点であった。
さて、鳥取藩主池田長吉が死去し、その子長幸が鳥取藩から備中松山藩に転封となると、輝政の長男利隆の子で、池田宗家を継ぐ光政がまだ幼少だという理由で鳥取藩主になった。
幼少の藩主に任せたということは、姫路、岡山と比べ、鳥取の重要性は低かったのだろう。
岡山藩主池田忠継の跡は、同じく輝政と督姫の間の子であった弟の忠雄が継いだ。忠雄の没後、その子の光仲がまだ幼少だったので、鳥取藩主だった光政が岡山藩主になり、光仲が鳥取藩主となる国替が行われた。
こうして光仲から第12代慶徳までが、その後鳥取藩主として君臨した。
鳥取藩主池田家は、家康の次女に繋がる血筋の家であるため、幕府から松平姓の使用を許可され、葵の紋を下賜されるなど、親藩に準ずる扱いを受けた。
元禄六年(1693年)七月七日に光仲が没すると、武内宿禰が死去したとされる伝説の地で、ヒバ谷と呼ばれるこの場所が、鳥取藩主池田家の墓所に選定された。
歴代藩主とその妻子の墓がある墓所は広大である。
墓所の門を潜って左奥に行くと、初代藩主光仲の墓がある。
歴代藩主の墓石は、2代綱清のものを除き、亀の形をした亀趺(きふ)の上に建てられている。
光仲の墓石の背面には、光仲の業績を記した文が刻まれている。
歴代藩主の墓石の傍には、藩主より小さなサイズの墓石が並んでいる。妻子や親族の墓であろう。
歴代藩主の墓は、ほとんどが亀趺の上に建ててあるが、二代の池田綱清の墓だけが、亀趺を有しない。
これは当時の将軍だった徳川綱吉が発した「生類憐みの令」に遠慮したためと言われている。
綱清の代から政務は重臣任せとなり、しばらく藩政は混乱したという。
歴代藩主は短命な者が多く、とびきりの名君というものは現れていない。
六代池田治道の時代に、鳥取藩では学問が発達し、大槻玄沢に師事した稲村三伯が、寛政八年(1796年)に日本初の蘭和辞典「ハルマ和解(わげ)」を刊行した。
治道自身も学問に打ち込んだ人物だったらしい。
十一代池田慶栄(よしたか)は、加賀前田家の出身で、幕府の命で鳥取藩に養子に入り、藩主になった。
ところが慶栄は、幕府から初のお国入りを許可され、因幡に向かって江戸から下向中の嘉永三年(1850年)に、京都伏見藩邸で病没した。享年17歳であった。
他家から藩主を迎えることを嫌った鳥取藩士に毒殺されたというよからぬ噂がたったそうだ。
ネットで調べると、鳥取藩主池田家の現当主は女性の第18代池田百合子氏で、後継ぎはすえておらず、当代で鳥取池田家の廃絶を表明しておられるそうだ。
岡山池田家にも既に当主はいないため、池田輝政に始まった両池田家の歴史も終わるようだ。