奈良時代に入ると、律令制が布かれ、因幡にも国衙(国庁)ができた。
国衙には、中央から国司(守)、次官(介)、補佐(掾)といった役職の者が派遣され、地元豪族出身者を郡司、郷司として採用し、地方政治が行われた。
都から近い因幡には、大伴家持や在原行平といった現代でも名の知れた官人が、国司として赴任した。
国司の任期は4年であった。
因幡国庁跡からは、国庁の庁舎に使われた瓦などが出土している。
鳥取市内の国庁跡や郡衙跡からは、国庁で働いた官人が使ったであろう墨書土器や硯、刀子(とうす、古代のカッターナイフのようなもの)などの文房具や事務用品が出土した。
考えようによっては、我々が普段何気なく使っているボールペンやホッチキスや消しゴムも、1000年後に発掘されれば貴重な歴史的資料になるだろう。
鳥取市歴史博物館には、鳥取市寺町の本願寺から寄託された、因幡最古の梵鐘が展示されている。
この梵鐘は、平安時代より前の作であるという。本願寺は、それからかなり後の16世紀末の開基である。
この梵鐘が、どのような経路で本願寺に伝わったかは分からない。
律令制が始まったころの日本では、土地は全て公有であった。日本は一種の社会主義国家だった。
平安時代に入り、律令制が崩れる中で、各地に寺社や中央貴族の荘園という私領が増加した。
因幡は、平安時代以降も国衙領(公有の土地)が多かったのが特徴であった。
平安時代末期には、郡司や荘官が、開墾した土地を守るために武装化し、武士になった。
そんな在地の武士だった伯耆国の山名時氏は、南北朝時代に南朝と北朝の間を行ったり来たりしている間に領地を拡大し、因幡も領地化した。
時氏の子息の山名時義の代には、山陰地方を中心とした11ヶ国の守護大名となった。
因幡山名氏が守護所としたのが、鳥取市湖山町にある天神山城である。
天神山城跡からは、日本製の土器だけでなく、朝鮮陶器や宋代の青磁、明代の白磁などが発掘された。
山名氏は、山陰にありながら、大陸の進んだ陶器を入手できたようだ。
また、本高円ノ前遺跡からは、室町時代の密教法具である五鈷鈴と花瓶が発掘された。
中世は、日本各地で国衙領、寺社領、貴族領が入り交じり、武士が用心棒や横領者としてその間に入り込んでいった。中世は、実に複雑な時代だった。
そんな時代の宗教の遺物は、中世社会を彷彿とさせてくれる。
天正八年(1580年)の秀吉による鳥取城攻めで、因幡山名氏の最後の当主山名豊国が織田家に降伏し、因幡山名氏は廃絶した。
江戸時代になって、因幡の支配者となったのは、池田家である。
天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦いでは、恒興は羽柴秀次の指揮下で戦ったが、家康軍の奇襲を受け戦死した。
恒興の死後は、輝政が家督を継いだ。
輝政は、小田原城攻めの功により、三河国吉田城に移り、文禄三年(1594年)に秀吉の媒酌で家康の娘督姫を妻に迎えた。
この婚姻のおかげで、家康の天下になってからは、池田家は徳川家から準親藩の扱いを受け、慶長五年(1600年)に輝政は播磨52万石を領する大大名となる。
同時期に輝政の弟の池田長吉が鳥取城主となった。
輝政は、西国の抑えとして、今に残る壮麗な姫路城を建築した。
慶長十八年(1613年)には、輝政の子息(家康の外孫)たちは、皆大名となった。
輝政は播磨姫路藩主、弟長吉は因幡鳥取藩主のままだが、輝政の長男忠継は備前岡山藩主、次男忠雄は淡路洲本藩主、三男輝澄は播磨山崎藩主、四男政綱は播磨赤穂藩主、五男輝興は播磨平福藩主となった。
慶長十八年(1613年)には、大坂城に拠る豊臣秀頼はまだ健在であった。
徳川家と豊臣家との戦になれば、西国の秀吉恩顧の外様大名の軍勢が、豊臣家救援のため、陸路海路で大坂城に駆け付けるかも知れなかった。
上の地図を見ると、池田家の領地が、西国の外様大名に対する防壁のようになっているのがよく分かる。
家康の池田家への信頼の厚さは並大抵ではなかった。
豊臣家滅亡後の元和三年(1617年)には、輝政は死去している。
岡山藩主は次男の忠雄に移り、輝政の前妻の子・利隆の子の池田光政が鳥取藩主になった。池田長吉の子の長幸が備中松山藩主となっている。
その後、岡山藩主忠雄の子の光仲が幼少だったため、鳥取藩主だった光政が岡山藩主となり、光仲は3歳で鳥取藩主となった。
これが、寛永九年(1632年)の国替えである。岡山藩の方が、鳥取藩より重視されていたようだ。
以後の鳥取藩主は、光仲の子孫が務めるようになった。光仲が鳥取藩の藩祖と仰がれた所以である。
光仲は、元禄六年(1693年)に64歳で没した。
家康の曾孫であった光仲は、幕府に東照大権現(家康の神号)を鳥取に勧請することを願い、許可された。
慶安三年(1650年)に、東照大権現を祭神とする樗谿神社が開創された。
江戸時代には、各地で火災が発生したが、文化九年(1812年)には鳥取城下の大半が火災で焼けたようだ。
上の写真の絵図の赤色に塗られた部分が、焼失した場所である。
嘉永三年(1850年)に第12代鳥取藩主になったのは、水戸徳川家から池田家に養子に入った慶徳(よしのり)だった。
徳川15代将軍慶喜の異母兄だった慶徳は、幕末になると尊王派につくか佐幕派につくかに悩み、鳥取藩は揺れ動いた。
だが慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは、鳥取藩は新政府軍についた。
鳥羽伏見の戦いを描いた錦絵には、長州藩毛利氏、薩摩藩島津氏、土佐藩山内氏の家紋のある幟の中に、池田家の揚羽蝶の家紋が入っている。
家康の血を受け継いだ鳥取藩池田家も、最後は倒幕側に付いたわけだ。
こうして見てくると、鳥取市の歴史は、見所が多い。
鳥取市は、人口で見ると日本で最小の県庁所在地だが、歴史の豊富さは町の大きさにはかかわらないことを教えてくれる。