曹源寺の裏山には、三重塔が聳えている。境内に入ると見えないが、遠く離れた所からなら、その存在を確認することが出来る。
裏山への登山道を暫く歩くと、三重塔が見えてくる。私が史跡巡りで訪れた、16番目の三重塔になる。
三重塔の手前には、何故かフェンスと鉄条網があって、近寄ることが出来なくなっている。
丁度フェンスで二分されているが、三重塔の前には巨大な岩がある。古代に磐座として信仰されたことがあったのではないかと想像される岩だ。
三重塔と巨岩という組み合わせが、中々面白い。
この三重塔は、曹源寺を訪れた観光客も見過ごすことが多いと思われるほど、境内から離れた山中にひっそりと建っている。
三重塔にしろ、五重塔にしろ、何のために仏塔があるかと言うと、遠くから眺めた人に、「ここに仏様がいるよ」と伝えるためであると思う。
三重塔の横の巨岩の上から見返ると、岡山平野南部の町々が見下ろされる。
彼方に見える山々は、児島湾を挟んだ向うにある児島半島の山々である。
さて、麓の曹源寺境内に戻り、本堂の裏にある岡山藩主池田家墓所を見学しようとしたが、扉が閉められ、立入禁止となっていた。
仕方なく、焼杉で造られた塀の隙間から墓所へ至る石段を撮影した。
石段の両脇にある蒲鉾型の石垣は、小ぶりではあるが、閑谷学校石塀や、大多府島の元禄防波堤と共通の形であり、津田永忠が施工したものだろうと思われる。
曹源寺が建てられた時、真言宗、天台宗、浄土宗、日蓮宗の塔頭が建てられたが、今現存するのは天台宗の天台寺と日蓮宗の大光院である。その内天台寺は、修理中で立入ることが出来なかった。
大光院には、日蓮宗のお題目である「南無妙法蓮華経」を彫った笠塔婆が二基ある。髭題目と呼ばれる、髭が伸びたような字体で書かれた題目石である。
一基目の題目石は、境内に建っていて、康永四年(1345年)の銘があるものである。この康永四年法華題目石は、岡山県重要文化財である。
もう一基の応永十八年(1411年)の銘のある比丘尼妙善題目石は、大覚堂という小さなお堂の中にあって、拝観できなかった。
大光院にある題目石二基は、元々は備前国御津郡一宮村にあった妙善寺に置かれていたものである。
妙善寺は、南北朝の争乱で九州から攻め上がって来た足利尊氏軍と南朝方の新田義貞軍が、備中福山城で衝突した福山合戦での戦死者を、大覚大僧正が供養した場所で、康永四年法華題目石もその供養のために建てられたものである。
比丘尼妙善題目石は、比丘尼妙善が応永十八年に大覚大僧正の聖跡を弔って建てたものだとされている。
寛文七年(1667年)の岡山藩の寺社整理によって、妙善寺が廃寺になった際に、題目石二基も大光院に移転されたそうだ。
曹源寺は、未だ観光地化されていない、静けさに包まれた仏道修行に相応しい寺であった。こういう寺が後世まで残ることを心より望むものである。