4月3日に岡山県津山市を久々に訪れた。昨年8月30日以来の訪問である。前回は酷暑の中の訪問だったが、今回は過ごしやすい気候の中での訪問となった。
津山と言えば、鶴山公園(津山城跡)の桜が有名だが、前回津山城跡を訪れているので、今回は横目に見ながら通り過ぎただけだった。
今回津山の様々な史跡で桜を見たが、4月に入ったばかりというのに、早くも散り始めていた。
今回紹介するのは、津山市山北にある、津山藩が築いた大名庭園、衆楽園である。
衆楽園は、明暦年間(1655~1658年)に、津山藩第二代藩主森長継によって作られた大名庭園である。
長継は、初代藩主森忠政の家老関成次と忠政の三女・お郷の間の子である。忠政の外孫に当る。
忠政の実子が皆夭折してしまったため、忠政は長継を養子にして跡を継がせた。
長継は、忠政の跡を継いで津山の開発を進めたが、京都から小堀遠州流の作庭師を呼んで大名庭園を作らせた。それが現在の衆楽園である。作庭時の面積は現在の3倍もあったそうだ。
庭園には、御殿が築かれ、藩主が清遊する場となった。
森氏が改易となった後、庭園は、森氏に代わって入封した松平氏に受け継がれた。
明治3年、津山藩主松平慶倫(よしとも)が庭園を「衆楽園」と命名し、公園として一般に公開した。
明治4年の廃藩の際に、多くの建物が壊され庭園の規模も縮小された。名称も偕楽園または津山公園と改称されたが、幸いに園池の主要部分は残り、大正14年に再び衆楽園と改称した。
平成14年には、国指定名勝となった。
現在の衆楽園は、市民に無料で公開されている。岡山後楽園と比べれば規模は小さいが、これだけ立派な大名庭園の跡を、無料で見学できるというのは幸せなことである。
衆楽園は、京都の仙洞御所の庭園を模したと言われている。池泉廻遊式庭園の典型で、江戸初期の大名庭園の面影をよく残しているという。
衆楽園の中央には、南北に長く伸びた大きな池があり、その池の中に4つの人口島がある。
人口島には、それぞれ味のある橋が架けられている。後楽園では、橋はことごとく立入禁止になっていたが、衆楽園では全ての橋を渡ることが出来る。
衆楽園では、こうした橋を渡りながら、庭園を巡ることが出来るが、池には睡蓮が浮かび、池の周囲には、桜、楓、松、躑躅などが生えている。
睡蓮の花が咲く季節に来たら、本当に美しいことだろう。
私が訪れた日は、散り始めとは言え、まだ桜が美しく咲いていた。風が吹くと桜吹雪が宙を舞った。
私が衆楽園を訪れて驚いたのは、樹高の高い松があったことである。
松と言えば、それほど高くない木だと認識していたが、こんなに高い松もあるのである。
池の最も南側にある人工島が、最も大きな島である。橋を歩いて島に渡る。
南側の島には、石造五重塔があり、島から北側の小さな人工島や、対岸にある茶室の風月軒が見える。
水面には鴨が泳いでいる。池中には大きな錦鯉も泳いでいる。ここにはゆったりした時間が流れている。
こういう庭園を語るのに、言葉は要らないと思う。ただ風を感じながら歩き、花や木々を眺め、池を訪れた水鳥を眺める。
最近になって、結局自然を眺めることが最高の贅沢であることが分かってきたが、町中に人工的な自然を作り出した大名の気持ちも分かる気がする。