松帆の浦の裏には、マナイタ山と呼ばれる低山が聳える。
マナイタ山には、中世には城が築かれていたらしい。
マナイタ山城と呼ばれたが、誰がいつ築いたのか詳細は分かっていない。
天正年間に、織田と毛利がこの城を巡って争った。当時毛利は、織田軍に包囲されている大坂の石山本願寺を支援しており、配下の水軍を大坂湾に派遣していた。その拠点として、岩屋の地は重要だったのだろう。
天正六年(1578年)には、毛利方が長屋元定を城の在番として置いた。天正九年(1581年)11月には、羽柴秀吉と池田勝九郎がマナイタ山城を攻略した。
しかし、その後は廃城となった筈である。マナイタ山からはサヌカイトが採れたことから、昭和40年代に山を削って土砂が採られ、城の遺構は消滅した。航空写真で見ると、今のマナイタ山の東側には溜池があるが、これが土砂を採った跡だろうか。
松帆の浦から西に車を走らせ、島の西側に回る。淡路市野島江埼に江埼灯台がある。
江埼灯台は、階段を登った先の高台に設置されている。
野島江埼という地名でも分かるように、この一帯は、平成7年の阪神淡路大震災の震源となった野島断層が通る場所である。
江埼灯台に至る階段も、この震災で大きくずれてしまった。
江埼灯台の説明板に、震災前後の階段の写真が載っていた。
写真のように、震災前は真っすぐだった階段が、震災後は上に行くほど南側にずれている。
震災で階段は大きく損傷したが、工事を経て復旧した。しかし、断層のずれで動いた階段はどうしようもなかった。
実際の階段を見ると、確かに右へ右へとずれている。途中の踊り場で、薄赤いカラーコンクリートで覆われた場所があったが、この部分が震災でひびが入ってズレた部分であるらしい。
人類を含めた動物は、動く地面の上で生活している。残念だが、こういった地震は今後何度も我々を襲うだろう。
階段を上ると、青い空が広がり、その下に白亜の石造の江埼灯台があった。
江埼灯台は、日本の開国に当って、欧米が設置を要求した五つの灯台の一つである。石造灯台としては日本で3番目に古く、洋式灯台としては8番目の古さだそうだ。
英国人リチャード・ヘンリー・プラントンにより設計され、明治4年(1871年)4月27日に初点灯した。
灯台の周りの敷地は立入禁止になっているので、灯台のレンズのある面には行けなかった。
灯台の出入り口の上に貼られたプレートには、灯台が初めて点灯された明治4年4月27日の日付が刻まれている。
現在も、夜間に西側から明石海峡に差し掛かった船は、この江埼灯台の光を頼りに進んでいることだろう。そしてこれからもそれは続いて行く事だろう。