勝山の町の北側に聳える大総(おおつぶさ)山上に築かれた山城が、高田城である。
上の写真は、城跡を南西から撮ったものだが、手前に流れるのが旭川である。
旭川沿いに、勝山の町並み保存地区の蔵が見える。蔵の石垣に設置された階段を使って河川敷に下りられるようになっている。
昔はこの河川敷に高瀬舟が発着し、蔵から下した荷物を積んだのだろう。
大総山は、南側の太鼓山と北側の如意山の2つの峰の総称で、太鼓山に出丸が築かれ、如意山に本丸が築かれた。
私は先ず出丸の方から登ることにした。
高田城は、地元の武将だった三浦貞連が文亀元年(1501年)に築城したと伝えられている。
天正4年(1576年)に毛利・宇喜多軍の攻撃を受けて、時の城主三浦貞広は城から退去し、その後死去した。
以後の高田城は、毛利氏や宇喜多氏が所有するところとなった。
太鼓山と如意山の間には舗装路が通っていて、そこから太鼓山に登る道が始まっている。
太鼓山は、標高約261メートルの低山で、すぐに山頂に至った。
途中、堀切があった。なかなか明瞭な堀切である。
堀切は、尾根を途中で切断するために人工的に掘られた空堀のことである。
今は堀切の一部が埋め戻されて登山路になっているが、昔はこの堀切を越えなければ先に進めなかったことだろう。
登山路を進むと、曲輪があって、井戸のようなものが見えた。
この曲輪は、出丸の三の丸であった。
井戸のように見えたものに近づくと、カンカン井戸と呼ばれる井戸の跡であった。
城中の飲み水を供給するために掘られた井戸で、深さは5メートルあるという。
この井戸を抜けて、勝山の町裏に出ることが出来ると言われているが、それはあくまで伝説の域を出ない。
ここから登山道に戻って少し上ると二の丸がある。
二の丸はほとんど草に覆われていて、形が判別できない。
二の丸の上に本丸があるが、本丸上には今は電塔が建っている。
太鼓山の出丸を見学し終えて、次は如意山の本丸に向かった。
如意山の中腹にグラウンドがあるが、そのグラウンドもかつての城の曲輪の跡である。
グラウンドを過ぎて、しばらく山の奥に歩いていくと、本丸方面に登っていく道がある。
登山道を歩いてしばらく行くと、堀切に架けられた土橋がある。
この堀切が、二の丸より上を防御している。
堀切を過ぎると、二の丸の下の曲輪である二の丸次がある。そこから二の丸の切岸が眺められる。
二の丸は広壮な曲輪で、休憩小屋などがある。
二の丸からは、本丸の切岸を眺めることが出来る。
本丸に上がると、眺めのいい削平地が広がっている。
太平の眺めと言うのだろうか。城跡は、廃城となった後は本来の役割を終えている。
引退後の時間を過ごしている。
下の人間社会で様々な出来事があっても、引退後の時間を悠然と歩む城跡が、羨ましくなった。