淡路島の最北端一帯の海岸は、松帆の浦と呼ばれている。
古来から、何度も和歌に詠まれてきた歌枕である。
現在の松帆の浦の東側は、波が砂利に打ち寄せる自然の海岸であり、そこに立つと、明石海峡の対岸が指呼の間に見える。
松帆の浦を詠んだ有名な和歌は、「小倉百人一首」の撰者でもある藤原定家が詠んだ、
来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
という一首である。
この歌は、百人一首にも入っている。
松帆の浦の「松」と来ぬ人を待つの「待つ」が掛詞になっている。
歌意は、「来ない恋人を待つ、その待つと同じ響きの松帆の浦の夕凪の中で焼く藻塩(海藻を焼いて得る塩)のように、来ぬ人を待つ私の身は恋焦がれているのです」といったところか。
「まつ」という掛詞を軸に、比喩の世界が開けていく。定家らしい技巧が勝った歌だ。
松帆の浦には、この定家の歌碑がある。
この歌碑は、実は幕末に徳島藩が外国船に対する防備のために築いた松帆台場跡の上に建っている。
昨年9月8日の当ブログ記事「舞子」で、舞子台場跡を紹介したが、舞子の対岸の松帆の浦にも台場が築かれた。
嘉永七年(1854年)9月にロシアのプチャーチン艦隊が大坂湾に侵入して、幕府に開国を迫った。
幕府は、外国船を打ち払うために、大坂湾岸の諸藩に命じて砲台を造らせた。幕末には、淡路島全島は、徳島藩蜂須賀家の所領であった。
徳島藩は、岩屋の地に、松帆台場を含め、6つの台場を築いた。
外国船が明石海峡を通過した際は、対岸の舞子台場の砲台と協同して、敵艦を撃破するつもりだったのだろう。
松帆台場の背後には、御備船(バッテラ―)と呼ばれる小型船を待機させるための人工の港湾、松帆湊も築かれた。
岩屋の地は潮流が速く、海岸に港を築くことが出来なかった。そのため、陸地を掘って人工的な港を築いたが、港の出口が潮流のために何度も壊れたので、港はついに完成しなかったという。
松帆湊の出口付近は、今はコンクリート製の堤防に覆われている。なるほどここから木造の小型船が出入りするのは難儀しそうだ。
大砲を据えた台場本体は、M字型をした土塁である。その土塁の上に先ほどの藤原定家歌碑が建っている。
台場本体の南側の海沿いには、敵艦から内陸の防備を隠すための目隠し土塁が築かれた。
目隠し土塁は、海岸沿いに延びているが、途中で途切れ途切れになっている。
その途切れたところに、赤鳥居を控えた小さな恵比須神社があり、その近くの土塁の上に「松帆之碑」と刻んだ石碑があった。
赤い鳥居越しに眺める明石海峡は、一種不思議な風景であった。
さて、M字型の台場本体に行ってみる。M字の右足の部分に、石垣に囲われた火薬庫跡がある。
また、M字の左足部分には、神戸製鋼所健康保険組合の保養所「淡路ゆうなぎ荘」が建っている。
淡路ゆうなぎ荘の下に台場本体の土塁がある。
上の写真で言うと、丁度淡路ゆうなぎ荘の左端の辺りが、M字型土塁の真ん中の谷間に当る。
空中か海上からでないと、M字型の台場本体の全体像を写すことは出来ない。
土塁の下には、わずかに石垣が見える。これが、台場が築かれた時の石垣である。
実は、地表に露出している石垣は全体の一部で、石垣の大半は地下に埋まっている。
先ほどの説明板に、発掘調査時の写真が載っている。
左上の写真のように、元々は石垣がもっと露出して、石垣自体が波に洗われる砲台だったのだろう。
今は、台場本体自体がコンクリート製の堤防で守られ、堤防の内側に土が積もって石垣が隠れてしまった。
堤防の上から明石海峡の方を見ると、丁度海峡の真ん中あたりを船が通過していた。ここから船まで500メートルは離れているだろうか。
写真で見ると、船はかなり遠く見えるが、肉眼で見るともっと近くにあるように見える。
海上の船を、幕末にここを通過した外国の蒸気船に見立ててみた。岩屋と舞子の両岸から砲撃されたら、たまったものではなかったろう。
白村江の戦いで日本が唐新羅連合軍に敗れた後、唐軍の日本襲来に備えて、朝廷は西日本各地に山城を築いた。
それと同じく、幕末に江戸湾岸や大坂湾岸、馬関海峡などに築かれた台場も、外国からの脅威に備えた設備である。
外国からの脅威に備えた設備も、時代時代の兵器や戦い方の違いによって変わるものだ。