門尾三本松峠

 大樹寺から県道282号線を東に行くと、すぐにヤマメ養殖場の看板が見えてくる。

 ここを左に曲がると、すぐ左手の山際に、因幡毛利氏最後の当主毛利豊元の墓とされる宝篋印塔がある。

毛利豊元の墓

 因幡毛利氏は、毛利次郎貞元による反乱が鎮圧された後も生き残った。

 最後の当主毛利豊元は、因幡に進出してきた安芸毛利氏の傘下に入った。

 天正八年(1580年)の秀吉の因幡攻めに際し、市場城を放棄して鳥取城に籠城したが、鳥取城が陥落した後は行方不明になった。

毛利豊元の墓

 毛利豊元の墓とされる宝篋印塔の周囲には、説明板も何もない。何故この宝篋印塔が行方不明になった毛利豊元の墓と言い伝えられているのか、由来は分からない。

 だが宝篋印塔の形は、江戸時代よりは前のものだから、それなりに古いものであるのは確かだ。

 鎌倉時代から続く各地方の国人の家は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、帰農したり滅亡したりして、数多く断絶した。因幡毛利氏もその一つである。断絶した国人衆の最後の当主の墓にロマンを感じる。

 ここから更に東に走り、鳥取県八頭郡八頭町落岩(おちいわ)に入る。落岩の公民館から数十メートル南に民家と物置がある。その裏に、落岩の五輪塔と呼ばれる大きな石造五輪塔がある。

落岩の五輪塔

落合の五輪塔手前の石仏

 落合の五輪塔の手前には、小さな五輪塔や笠塔婆、石仏などがある。この一帯にあったものをここに集めたようだ。

 因幡の史跡巡りをして感じるが、因幡にはあちこちに小さな石造五輪塔などの供養塔がある。

 とりわけ因幡に供養塔を建てる習慣があったのか、他の地域が時代の推移と共に供養塔を廃棄してきたのか、そこは分からない。

 小さな石塔や石仏群の最奥に、落岩の五輪塔がある。

落岩の五輪塔

 落岩の五輪塔は、室町時代初期のもので、高さ約1.86メートルの堂々たる大五輪塔である。

 石造五輪塔は、密教の伝来と共に作られるようになった。元々はお堂や仏像の落成の際に記念として作られてきたが、鎌倉時代以降は墓標としても建てられるようになった。

 落岩の五輪塔は、地元の落岩城に拠った武士の墓標という伝承があるそうだ。八頭町指定文化財である。

 ここから西に走り、八頭町門尾の集落に行く。

 現在の播磨地区と因幡地区を結ぶのは、国道29号線だが、江戸時代には若桜往来という道が結んでいた。

 この若桜往来の法美郡(現鳥取市)と八上郡(現八頭町)の境界になるのが、門尾三本松峠である。

尾三本松への入口

 門尾三本松峠には、門尾集落の北側の、脇に標柱が立つ場所から道を真っ直ぐ歩いて行くと行きあたる。登山口から約15分歩くと峠である。

 峠の手前に石垣があり、その上に「南無妙法蓮華経」と刻まれた法華供養塔が建っている。

峠手前の石垣

法華供養塔

 この法華供養塔は、明治4年に建てられたものだ。

 若桜往来は、明治18年の旧国道20号線の開通まで、地域交通の主力であった。大正初年までは、峠付近に三本の松が生えていた。それが三本松峠の名称の由来である。

 三本の松は、伐採されたり枯死したりして、今では残っていない。

 峠付近には、江戸時代の力士の墓である力士塚や、伊勢神宮参宮の先達(せんだつ)を供養する参宮先達供養塔などがある。

峠手前の塚

力士塚

参宮先達供養塔

 力士塚は、文政八年(1825年)に建てられたものである。小櫻淺次郎墓と彫ってある。当時この地方で名を成した力士の墓であろうか。

 参宮先達供養塔には、弘化三年(1846年)四月と刻まれている。先達とは、霊場巡りで参拝者を先導する経験豊富な巡礼者を指す。江戸時代の日本では、一生に一度のお伊勢参りが庶民の間でも流行した。

 これらの石塚のある場所を過ぎると門尾三本松峠の頂上に至る。

峠の頂上

 この頂上を過ぎて下りていくと、若桜往来が続き、紙子谷(かごだに)の集落がある。

紙子谷に至る若桜往来

 江戸時代の道は、現代でも地図上で確かめることが出来る。当時の道幅は、現代では自動車同士がすれ違うことが出来ないくらいの狭さである。

 我々の身近にある不便な狭い道が、実は非常に古くから使われていた道であることはよくあることである。

 普段はあまり意識していないが、私たちは過去との連続の中で生きているのである。