南京町から北上し、JRの高架を潜り、坂道を登る。
兵庫県公館は、明治35年(1902年)に第4代兵庫県庁舎として建設された。
設計者は、東京音楽学校(現東京芸術大学)を手掛けた山口半六である。
フランス・ルネサンス様式の重厚華麗な外観を有する。
昭和58年(1983年)まで、81年に渡って兵庫県庁の本庁舎であった。
この建物も、昭和20年の神戸大空襲により、外壁を残して焼失してしまった。
その後2回の改修工事が行われ、昭和60年に明治の面影を色濃く残す兵庫県公館に生まれ変わった。
現在の兵庫県庁は、公館の北側にある。
兵庫県公館は、迎賓館と県政資料館という2つの役割を持っている。
館内には、神戸出身の洋画家小磯良平を始め、兵庫県にゆかりのある画家の作品が展示されていて、画廊のような雰囲気がある。
毎年行われる阪神淡路大震災の追悼行事もここで行われており、今でも兵庫県政の象徴的な役割を果たしている建物である。
建物は、ロの字型の3階建て煉瓦造りで、重厚な石材が多用されている。
兵庫県公館の東玄関あたりから北門方向を見ると、赤煉瓦の日本キリスト教団神戸栄光教会が見える。
兵庫県公館と神戸栄光教会の両方が見える景色は、日本ではなく、まるでヨーロッパの街角のようだ。
北玄関側に回る。北玄関は、石造三連アーチの奥に玄関ドアがある重厚な造りである。
兵庫県公館は、県政資料館が月~土、迎賓館が土曜のみ、一般公開をしているのだが、現在は新型コロナウイルス蔓延防止対策のため、一般公開を取りやめている。
しかし、兵庫県唯一と言っていいルネサンス様式の建造物の威容は、外観からだけでも楽しめる。
ここから少し西に歩いて、神戸市中央区花隈町にある花隈(はなくま)城跡を訪れた。
花隈城跡は、巨大な石垣で覆われた小高い丘で、現在はその中がくり抜かれて駐車場になっている。
城跡上は、花隈公園という公園になっている。
花隈城は、天正二年(1574年)に中国地方進出を狙う信長が、家臣の荒木村重に築かせた城である。
元々は鼻隈城と呼ばれていた。六甲山から延びた丘陵の先を利用して築かれた城のため、その地形から丘陵の鼻の隈という意味で付けられた名だろう。
確かに花隈城跡の東西の道は急な坂になっていて、城跡の部分だけが浮いた丘のようになっている。
現在の城跡は、見ると立派な石垣の遺構のように見えるが、近づいてみると石垣の間がセメントで接着されており、天正年間からの石垣でないことが分かる。
近代になって築かれた模擬石垣だろう。
しかし、これだけの規模の石垣となると、建築年代が新しいにしても、それなりの価値を持つと思う。
荒木村重は、天正六年(1578年)に信長に叛いた。村重は、伊丹の有岡城に拠って戦ったが、天正七年(1579年)にそこで敗北したため、花隈城に立て籠もった。花隈城は、池田恒興らに攻め立てられ、天正八年(1580年)に落城した。
花隈城跡の上に登ると、広い公園になっている。
公園西北隅に、様々な石碑が建っている。
中でも感心したのが、花隈町出身の椙元紋太の句碑である。
椙元は、明治23年から昭和45年までを生きた人物で、戦災に遭うまで地元で和菓子舗を経営した。その傍ら、大正2年から川柳に打ち込んだ。
生涯の大半を川柳に捧げた人のようだ。
椙元の句碑には、「人みなの 千秋万歳 うたがわず」と刻まれている。世の全ての人の幸せを願った、ほっこりする句である。
その隣には、花隈城跡の石碑と東郷の井の石碑がある。
花隈城跡の碑は、昭和3年に建立された。碑に刻まれた文字の揮毫は侯爵池田宣政のものである。
花隈城を陥落させた池田恒興の子孫である。
その隣の東郷の井の由来はこうである。
明治16年に神戸小野浜造船所にて、初代戦艦大和の建造工事が始まった。
明治18年の進水から明治20年の竣工まで、大和の建造監督官として、東郷平八郎が赴任し、近くの神戸倶楽部に宿泊した。
その後東郷平八郎は、日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を撃破し、世界の海軍から尊敬されるようになった。
昭和5年に、神戸倶楽部は、東郷が神戸滞在中に朝夕使っていた井戸の傍にこの石碑を建てた。
東郷の井のあった場所は、今は歩道になっていて、原型を留めていない。石碑だけが花隈公園に移設された。
兵庫県公館や花隈城跡がある一帯は、現在でも兵庫県庁等がある兵庫県の行政の中枢エリアである。
旧生田川と宇治川に挟まれ、北は六甲山に守られ、坂の上から眼下に西国街道や海を見下ろすこの地は、古くから要衝の地と見られていたのだろう。
我々が普段何気なく上り下りしている坂道も、かつて町の形成に大きな意味を持っていたかも知れない。