石の寝屋古墳群

 岩屋の町から北上すると、西岡山が左手に見えてくる。西岡山の中腹に、石の寝屋古墳群があるという。

 そこに至るには、神戸淡路鳴門自動車道の上に架かる石の寝屋跨道橋を越えねばならない。

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石の寝屋跨道橋

 跨橋道を越え、山裾に至る。そこから長い階段を登っていく。途中海の方を見ると、明石海峡大橋と対岸の神戸市垂水区須磨区の街並みを一望することが出来る。

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西岡山からの眺望

 眼下には、潮流の速い明石海峡がある。

 更に登って行くと、石の寝屋古墳群の説明板があった。

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石の寝屋古墳群説明板

 石の寝屋古墳群は、合計8基からなる古墳群である。

 石の寝屋古墳の被葬者は、「日本書紀」の允恭天皇の章に書かれた、海人・男狭磯(おさし)の墓であると地元では言い伝えられている。

 第19代允恭天皇は、淡路島で狩りをしたが、獲物が一匹も獲れなかった。天皇が占うと、島の神は「お前が獲物を獲れないのは、私の意思だ。明石の海底に真珠がある。それを私に捧げれば、お前は獲物を獲ることができるだろう」と言った。

 天皇は、島の神に捧げる真珠を得るため、付近の海人を集めて明石海峡の海底に潜らせた。しかし海が深いため、誰も海底に辿り着けなかった。

 ただ一人、阿波国の長邑出身の男狭磯のみが海底に到達し、桃の実ほどの真珠を持った大鮑を抱えて水面に上って来た。しかし男狭磯は波間に浮かぶとそのまま息絶えてしまった。

 天皇は、大きな真珠を島の神に捧げ、おかげで多くの獣を獲た。ただ男狭磯が死んだことを悲しみ、墓を作ったという。

 さて、石の寝屋古墳群を見学しようと説明板の周りを見たが、どこにもそれらしいものが見当たらない。

 ただ道の向こうに藪が広がるばかりである。

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この藪の向うに古墳がある。

 藪に少し入ってみたが、バラ科の植物でも生えているのか、棘のついた蔓や枝がはびこっていて進みがたい。

 しかし、藪の向う側に広い空間があるのが見えたので、勇気を出して藪の中に入って行った。藪を抜けると視界が広がり、果たして古墳があった。

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石の寝屋古墳

 古墳と言っても前方後円墳ではなく、小さな円墳であった。円墳の裏に回ると、天井板が崩れた横穴式石室があった。

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横穴式石室

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 石の寝屋古墳群には、全部で8基の古墳があるそうだが、藪を突破してようやく1基目に辿り着いただけでかなり疲れてしまった。そのため他の7基は見学出来なかった。

 考古学的には、石の寝屋古墳群は、6世紀後半に築かれたものと見られている。

 允恭天皇は、中国の史書宋書」「梁書」に説くところの、倭王済に比定されており、5世紀半ばに君臨した天皇と思われる。

 そうすると、この古墳が男狭磯の墓とするのは、少し無理があるようだ。

 この古墳群の被葬者が誰であるにせよ、明石海峡を見下ろす眺めの好いこの場所に葬られた人々は、生前から自分の墓所としてここを選んだことだろう。

 何にせよ、海峡の景色はいいものだ。海からの風にあおられながら、そう考えた。