前回に引き続き、今回も津山市周辺の地味な古墳を紹介する。
津山市下高倉西にある堀内三郎右衛門の顕彰碑から南下して、津山市高野山西にある正仙塚古墳を訪れる。
正仙塚古墳は、小高い丘の上にある。周りを藪に囲まれていて、墳形を確認することはできない。
上の写真の真ん中あたりが、丁度前方部と後円部の境目の「くびれ」の部分で、左側が後円部になる。
正仙塚古墳は、4世紀後半に築かれたと見られる前方後円墳で、全長は約56メートルあり、後円部の頂上には、播磨の竜山石製の石棺が露出している。石室のあった形跡はなく、石棺が直接土中に埋められたと見られている。
後円部頂上には、石棺が露出しており、「武塚権現」と彫られた石柱が建っている。かつてここに、何らかの祠があったのだろう。
この石棺の中身は、明治時代に盗掘された。その際に銅鏡、勾玉、菅玉、鉄斧などが見つかったと伝わっている。
正仙塚古墳は、津山市指定史跡となっている。
この古墳が築かれた4世紀後半は、神功皇后の時代で、日本が朝鮮半島に出兵していた時代である。正仙塚古墳の被埋葬者は、津山市を流れる加茂川流域を治めた豪族の首長と思われるが、この被埋葬者の治めた領域からも兵士が出兵したのかも知れない。
さて、正仙塚古墳から南に行き、加茂川を渡り、津山市河辺上之町という地域に行く。ここは、少し高い台地上にある地域である。
江戸時代初頭、津山藩森氏は、領内に平地が少なく、耕作地が僅かなため、平地に住む百姓を無理矢理台地上に移転させ、平地を耕作地にして生産力を増強するという、「百姓村の山あがり」という政策を取った。
特に、寛文四年(1664年)に藩主森長継が発令した「山あがり」は大規模で、加茂川東岸の平地上にあった河辺村に対し、現在の台地上に移転するよう命じた。
村民は、移転することにより耕作や生活が不便になり、牛の飼料となる柴草を刈ることが出来なくなるため、移転に猛反対したが、藩が年貢の減免と、津山城内の草刈りを認めたことから移転に応じた。
河辺上之町は、東西に通りが続く町だが、通りの東西両端に桝形と呼ばれる石塁が残っている。
河辺上之町は、当時宿場町を形成し、津山城下町の東の出入り口の役割を果たしていたそうだ。
津山市河辺の南側にある西吉田には、5世紀後半に築造された西吉田1号墳がある。新興住宅地の近くの山上に古墳があるようだが、あまりにも藪が深く、近づくことができなかった。
西吉田1号墳からは、朝鮮半島南部加羅から伝わったとされる鉄鐸が出土したそうだ。日本国内2例目となるそうだ。
西吉田から西に行った津山市日上に、岡山県指定史跡の日上天王山古墳がある。
久々に綺麗な前方後円墳の形を確認できる古墳に出会えたので、少し嬉しくなる。
日上天王山古墳は、全長約57メートル、後円部が3段、前方部が2段に築かれている。前方部がバチ型に開く、奈良県の箸墓古墳と同一の形状をした、最古式の前方後円墳である。
大和王権初期に既に津山市あたりまで王権の力が及んでいたことを示している。
後円部からは、2基の石槨と2基の石棺が出土している。その内、1基の石槨は盗掘されておらず、埋葬時の銅鏡や鉄剣、鉄鏃などが見つかっている。
この古墳に埋葬された人物がどんな人物だったかは、もはや記録が残っていないので分らない。奈良時代に編纂された「美作国風土記」が現存していたら、そこに書かれていたことだろう。残念ながら「美作国風土記」は現在に伝わっていない。
この日上天王山古墳の周辺には、多数の円墳が築かれている。日上畝山古墳群と言われている。
日上天王山古墳の周囲に、これだけ多くの古墳が築かれたということは、日上天王山古墳の埋葬者が、地元にとって伝説的な偉大な首長だったということを示しているのではないか。
当時の銅鏡は、大和王権が中国から入手したか、鏡作部に命じて国内生産をしたもので、貴重品であった。
日上天王山古墳の被埋葬者は、大和王権の配下となり、地方の統治を任された証に、大和王権から貴重な銅鏡を下賜されたのではないか。
日上畝山古墳群の円墳や方墳は、5世紀後半から6世紀前半にかけて築かれたものである。
石室は造られず、石槨や木棺を直接埋葬している。播磨には、石室を備えた古墳が多くあるが、美作ではお目にかからない。
美作に石室を造る技術が伝わらなかったのか、石が不足していたのか、石室を作る労働力を準備するほどの経済力がなかったのか、地元の豪族が石室の必要性を認めなかったのか、理由は分らない。
古墳の形状や大きさ、埋葬品などから、被埋葬者がどんな地位にあった人で、その地域がどんな立場にあったかを推定することができる。古墳とその発掘品は、文字なき時代の語らざる史料である。