鳥取藩主池田家墓所 後編 奥谷城跡 宮下52号墳

 鳥取藩主池田家墓所の門の手前に、池田家の菩提寺である興禅寺の歴代住職の墓地がある。

興禅寺歴代住職の墓

 歴代住職の墓地の隣に、初代藩主光仲の側室だった上野氏勾(こう)とその養子上野忠親の墓所がある。

上野勾の墓(中央)と上野忠親の墓(右側)

 勾は、光仲が50代になってから迎えた側室である。京都山科の出である。

 光仲が最も信頼した人物だったらしく、光仲は「余は数百人の家臣に仕えられているが、終始一貫忠誠を尽くしてくれるのは勾だけだ」と語っていたらしい。

上野勾(厚恩院)の墓

 勾は、絶えようとしていた上野家の名跡を縁者に継がせることを光仲に願った。光仲はこれを許し、勾の甥で、伏見の人だった西尾小平太忠親が勾の養子になり、上野氏300石を継ぐことになった。

上野忠親の墓

 上野家を継いだ忠親は、18世紀前半における鳥取藩最高の知識人と言われている。

 数々の著作を著し、「武士言草」では智仁勇兼備の武士道を説き、因幡の民話を集録した「雪窓夜話」を書いた。

 鳥取藩史上最大の一揆である元文一揆では、農民側の要求を藩主に説明して、藩主から農民寄りであるとして閉門を命じられた。閉門中は著述に専念したという。宝暦五年(1755年)に没した。

 上野勾の墓は、忠親が勾への恩を謝して建立したものである。

 勾は、光仲との間に清定を生んだ。清定は池田家の分家である鳥取西館を立てた。

 光仲の墓の近くに、鳥取西館に養子に入り、後に「寛政の文学三侯」と呼ばれた池田定常(冠山)の墓がある。

池田光仲の墓に向かって右手にある池田冠山の墓(奥から2つ目)

池田冠山の墓

 池田冠山は、「池田氏家譜集成」などを著した。著述は多く、諸学に博通していたという。天保四年(1844年)に没した。

 さて、鳥取藩主池田家墓所の南側にある城山の上には、奥谷城跡がある。

 そしてその山裾に、宮下52号墳という鳥の線刻画が描かれた古墳があるという。

奥谷城跡のある城山

 この宮下52号墳に到達するのが至難の業だった。ネットで調べると、古墳に至るルートの情報が僅かに載っていた。私はこの情報を頼りに、苦労の末にようやく古墳に辿り着いたので、今後この古墳を訪れる人のために、宮下52号墳への行き方を具体的に記しておこうと思う。

 鳥取藩主池田家墓所から南に約300メートル進むと、道の西側に「らんかん橋跡」と記した説明板がある。

らんかん橋跡の説明板

 上の写真にある溝が、昔は幅約2メートルある川だったそうだ。当時はここに欄干付の石橋が架けられていたという。

 この説明板から道を挟んだ東側に、最近建ったばかりと思われる新興住宅街がある。

らんかん橋跡の説明板の向かいの住宅街

 この住宅街の突き当りに、青色のクレーン車が駐車する建設会社の敷地がある。ネットの僅かな情報では、この建設会社の敷地の奥の藪を抜けると宮下52号墳があるとのことだった。

 敷地の奥は、地面がぬかるんだ湿地帯で、あちこちに倒木があり、まともに歩くのにも苦労する場所だった。

 靴の中が水浸しになりながら歩いたが、最後は山際の藪に阻まれてこれ以上進めなくなった。仕方なく新興住宅街に引き返した。

 私は途方に暮れたが、ネット情報では、藪の手前に山に入る道があり、道を進むと小屋があるとのことだった。その小屋の先に宮下52号墳があるという。

 山に入る道を探すと、上の写真の左側の民家の東側に溝があり、その先に山に入れそうな道があった。

民家の東側の溝

山に入る道

 道といっても、明確な登山道がある訳ではない。山に入って10メートルほど登ると、東側(右側)に道が続いているのが分かった。

城山の南麓を東に行く道

 この道を真っすぐ東に歩くと、少し開けた場所に出た。

開けた場所

 だがネット情報にあった小屋はどこにも見えない。とりあえず更に東に進んだ。すると藪の中に、倒れた小屋があった。

倒れた小屋

 ネット上にこの小屋のことを書いた方は、まだこの小屋が建っていたころにここを訪れたのだろう。

 さて、小屋を越えて更に東に進んだが、谷間があって進めなくなった。

 小屋に戻り、今度は小屋の北側にある急斜面を登ってみた。すると、明らかに山城の曲輪と思しき場所に出た。

 これが奥谷城跡の腰曲輪だろう。

奥谷城跡の腰曲輪

 この腰曲輪の東端に、円墳のようなものが見えた。二段に築盛されている。

腰曲輪の東端にある宮下52号墳

 この円墳のような塚の正面に回ると、果たして横穴式石室の入口があった。

宮下52号墳

宮下52号墳の石室入口

 この古墳を見つけた時、総身の血が逆流するように興奮して、誰もいない山中で、思わず「あった!あった!あった!」と叫びながら拍手した。

 石室の羨道はなくなっているので、この古墳の南半分は既に崩れ去ったものと見える。

 中に入ると、右手の石壁に鳥の線刻画が描かれていた。水鳥であろう。

鳥の線刻画

鳥の線刻画(フラッシュバージョン)

 よく見ると、中央の鳥の画の左下にも、小さな鳥が描かれている。

 また、石に赤い塗料が着いているように見える。昔は石室内は、もっと鮮やかな朱色に彩られていたのではないか。

 さて、宮下52号墳の見学を終えて、山の上の方を見上げると、山頂まではあとわずかのようである。

山頂までの斜面

 山頂が近いと、木々の間から青い空が見えるものだ。木々の間に空が見えたのである。道はないが、勇を鼓して登っていった。

 途中、石塁のようなものがあった。段々畑の端を石塁で覆っているようだ。これは、城の遺構ではなく、近年ここに畑があった跡だろう。

石塁

 先ほどの小屋は、ここで農作業をしていた人が使っていたものだろう。

 山頂付近に至ると、曲輪のような削平地があった。

山頂付近の曲輪

 奥谷城跡は、ここに城がかつてあったという伝承があるだけで、いつの時代に築城されて、誰が城主だったかというような記録は残っていない。

 この城山の中には、宮下古墳群がある。近世の藩主の墓地と、古墳群が隣り合わせにあるのは面白いと思った。