舞子公園から東に進み、神戸市垂水区五色山にある五色塚古墳を訪れる。ここは国指定史跡となっている。
五色塚古墳は、全長約194メートルの前方後円墳で、兵庫県下最大の古墳である。全国の前方後円墳の中では、40位前後の大きさだ。
この古墳は、4~5世紀に築造された。被葬者が誰かは不明である。宮内庁が管理する御陵ではないので、墳丘上に登ることが出来る。
五色塚古墳は、昭和30年代までは、墳丘上にまで畑が作られ、地元の人たちに利用されていたが、昭和40年から開始された史跡環境整備事業の一環として、文化庁と神戸市により築造当時の姿に復元された。
五色塚古墳は、三段に築造され、下段は地元で取れた小さな葺石で、中段、上段は淡路から運んだ大きな葺石で覆われていた。淡路の五色浜から運んだ石で葺かれていたから、五色塚古墳と呼ぶという説がある。
復元工事前の、墳丘上に畑が作られていた時代でも、三段の墳丘の形を認識することが出来る。
これだけ大きな古墳である。使われた葺石の数も膨大で、石の総数は約223万個、総重量約2784トンと言われている。
また、築造時は墳頂と中、上段のテラスに鰭付円筒形埴輪と鰭付朝顔形埴輪が並べられていた。
全部で約2200本もの埴輪がめぐらされていたことから、別名千壺古墳という。
それにしても大きな古墳だ。仁徳天皇陵や、応神天皇陵は、これより遥かに巨大だが、周囲に濠が巡らされ、近寄ることが出来ない。
濠がない古墳でも、樹木が生えてしまって大きさを掴みにくいものがほとんどだ。完成当時の姿で、その大きさを実感できる古墳は、全国的にも珍しいだろう。
巨大古墳の例に漏れず、地上からでは全体像をカメラレンズに収めることが出来ない。
復元された葺石は、コンクリートで固定されており、風化はしばらくなさそうだ。それにしても、こんな巨大な建造物をよくも4~5世紀に造ったものだ。
古墳の上に上ると、海風が吹いて、被っている麦わら帽子が飛んでいきそうになる。
墳頂部からは、淡路島と明石海峡大橋を眺めることができる。家が一軒建ちそうなほどの広い空間だ。
墳頂部には、円筒形埴輪が並んでいる。
上部に大きなお椀のようなものが付いているのが、朝顔形埴輪である。古墳の側にある小屋の中に、実際に五色塚古墳から発掘された埴輪を展示している。
このような埴輪を何のために並べたのか、よくわからない。
「日本書紀」によると、神功皇后は、朝鮮征伐に赴く途中に後の応神天皇を出産し、朝鮮征伐終了後、瀬戸内海沿いに凱旋した。
応神天皇の異母兄弟の麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)は、皇位が応神天皇に行くのをおそれ、凱旋する神功皇后を迎え撃とうとした。
神功皇后に対抗しようとした王子2名は、病没した仲哀天皇のために赤石郡に陵墓を造ると称して、兵を集め、武器を取らせ、神功皇后の軍を迎え撃とうとする。
「日本書紀」の神功摂政元年2月条にこうある。
乃ち詳り(いつわり)て天皇の為に陵を作るまねして、播磨に詣りて(いたりて)山陵(みささぎ)を赤石に興つ(たつ)。仍りて船を編みて淡路島に絙し(わたし)て、其の嶋の石を運びて造る。則ち人毎に兵(つわもの)を取らしめて、皇后を待つ。
神戸市垂水区も古代は赤石郡の一部であった。赤石郡内で、この「日本書紀」の記事に当てはまる古墳は五色塚古墳しかない。なので昔から五色塚古墳が反逆の二皇子が築いた古墳とされてきた。
実際に、五色塚古墳を覆っていた葺石は、地質学的に淡路産であることが判明している。
それにしても、神功皇后に気取られずに兵を集める口実のため、こんな立派な古墳を造ったとしたら、非常に効率の悪い話である。
もし、五色塚古墳が、「日本書紀」の伝承通りの古墳なら、中には誰も埋葬されていないことになる。
五色塚古墳の東側には、一辺20メートル、高さ1.5メートルの方形の盛り土がある。
この盛り土も元は石が葺かれていたそうだ。埴輪や土師器、須恵器の破片が見つかっており、何らかの祭儀を行う場所だったのだろう。
また、五色塚古墳の西側には、五色塚古墳と同時期に築かれた小壺古墳がある。
こちらは、直径約67メートル、高さ約9メートルの、綺麗な円錐形の円墳である。普通に考えれば、五色塚古墳の陪塚だろう。
五色塚古墳の南側には、JRと山陽電鉄の線路が通り、その南側を国道2号線が通っている。
昔は、写真に見える線路の辺りまでが海だった。五色塚古墳は、海岸線の突端に造られた古墳だった。
今では海沿いに立つマンションに遮られて五色塚古墳を海から眺めることは出来ないが、昔は畿内と九州を行き来する船が明石海峡を通る時、嫌でもこの巨大古墳の威容が目に入ったことだろう。朝鮮半島などからの賓客が来日した時も、必ず目にしたことだろう。
となると、この古墳は、大和朝廷も公認する国家的モニュメントとして造られたのではないかと思われる。埋葬者がいたとすれば、相当な人物だったに違いない。
普通に考えれば、この五色塚古墳が築かれた由来が、「日本書記」編纂時には分らなくなっていて、「日本書紀」編纂時に先ほどの様な説話が作られたのではないかと思われる。
しかし真相は分からない。武器を持った兵員が、この古墳上で神功皇后の艦隊を待ち構えていたと想像するのも面白いものだ。