絵島に渡る橋から南を眺めると、正面に三対山別名城山が見える。
三対山は、山というほどもない低山である。永正七年(1510年)に大内義興がこの山上に岩屋城を築いたとされている。
三対山への登り口は、麓の飲食店の駐車場にある。
大内義興が築いた岩屋城がその後どうなったかは分からない。
慶長十五年(1610年)、「西国の太守」と呼ばれた池田輝政が、淡路統治の拠点として、三対山の上に岩屋城を築く。
本丸を中心に北の丸と南の丸があったというが、登って見ても城の形跡はさっぱり見当たらない。
頂上付近まで行ってみたが、藪に覆われて進めなくなった。
南側にまわると、大きな石が置いてあった。城と何か関係があるのだろうか。
池田輝政が築いた岩屋城は、慶長十八年(1613年)に由良城が出来たため廃城となった。岩屋城に使われた城郭石材は、由良城の築城に使われたらしいので、城跡にはほとんど何も残っていない。
岩屋の地は、明石海峡を扼する場所にあるので、古代から要衝だったことだろう。
岩屋城跡から北に歩くと、恵比須神社が見えてくる。
「古事記」では、伊邪那岐命と伊邪那美命がオノゴロ島で婚姻をした時に、女神の伊邪那美の方が先に男神の伊邪那岐に声をかけた。
その結果生まれたのが不具の子の蛭子(ひるこ)であるとされている。
伊邪那岐と伊邪那美は、不具の子である蛭子を葦船に乗せて海に流したという。西宮神社の伝承では、流れ着いた蛭子を祀ったのが西宮神社の始まりとされる。
先に女性の方から男性に声をかけると、健常な子が生まれないということが分り、今度は伊邪那岐の方から声をかけた。伊邪那美は日本列島の島々と様々な神々を産むことに成功する。
日本列島に先立って生まれた蛭子が、後世いつしか恵比須神と同一視されるようになった。
恵比須神は、記紀神話には出てこない神様で、海の向こうからやって来る外来物を神格化した神様とされる。
海に流された蛭子と恵比須神が同一視されてもおかしくはない。
恵比須神社の裏側には、三対山の岩肌が迫っている。この岩は、絵島や大和島と同じく柔らかい砂岩製なのだろう。人工的に掘られたと思われる洞窟がある。
洞窟は今は物置として使われている。
この洞窟の中に蛭子神を祭っているのが、岩楠(いわくす)神社である。岩屋の地名は、どうやらこの岩の洞窟から来ているようだ。
岩楠神社の拝殿は、洞窟に嵌め込まれるように建っている。この奥の洞窟内に、蛭子を祀る祠があるのだろう。
岩楠神社の洞窟は、昔は52メートルの奥行きがあったが、今は3メートルしかないという。
恵比須神社表の説明板には、「岩楠神社」とあったが、鳥居の扁額には「岩樟神社」とある。
「古事記」では蛭子を流した船を葦船としているが、「日本書紀」では、天磐櫲樟(あめのいわくす)船としている。櫲樟は楠のことであるらしい。
岩楠神社の名は、この天磐櫲樟船から来ているものと思われる。
楠は、大きく育って材質も固いため、古代には木造船の材料としてよく使われたことだろう。
しかしどちらかというと、葦船の方がより原始的で、神話にふさわしい気がする。
伊邪那岐と伊邪那美は、生まれた蛭子を不吉なものとして海に流したが、それがいつしか恵比須神と同一視され、福をもたらす神様として尊崇されるに至った。
蛭子は、言うなれば日本列島に先立って生まれた兄になるが、その蛭子が今も海の向こうから何かを日本に齎していると想像してみるのも、面白いものだ。