大乗寺の見学を終え、次は兵庫県美方郡香美町香住区下浜にある真言宗の寺院、喜見山(きみいさん)帝釈寺を訪れた。
この寺院の創建は古い。
遠く6世紀末、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が争った際、物部氏により多数の仏像が難波潟(大阪湾)に投棄された。
その中で、当寺の本尊の帝釈天像が、白鳳四年(676年)に下浜枕の崎に漂着した。
帝釈天像の威厳に満ちた尊容に、地元民は驚き、一宇のお堂に祀った。
その時、帝釈天像の下に枕のように横たわっていた枕石も、地元民によって運ばれた。今も寺院の前に安置されている。
大宝二年(702年)、当地を訪れた法相宗の開祖・道昭上人が、帝釈天像の崇高さに感服し、自ら脇侍仏の聖観音立像を刻んで奉納して、帝釈寺を開いたという。
境内に入ってすぐ目に入るのは、丈高い楠である。
大きな木を見ると、不思議と心落ち着く。
境内に入ってすぐ左手に、農村舞台だったと思われる建物がある。
今は薬師堂として、薬師如来坐像が祀られている。
帝釈寺本尊の帝釈天は、仏教の天部の神で、仏法の守護神である。
出自は非常に古く、バラモン教、ヒンドゥー教だけでなく、ペルシャのゾロアスター教にも登場する。
紀元前16~12世紀に小アジアで栄えたヒッタイトの条文にも出てくるという。
バラモン教の聖典「リグ・ヴェーダ」には、雷神インドラとして登場する。
いつしか仏教に取り入れられ、梵天と並ぶ仏教の守護神になった。
仏教世界の須弥山の頂上にある喜見城に住んでいると言われている。
本堂は開放されている。内陣奥には、閻魔大王を描いた掛け軸が掛けられている。
本尊の帝釈天像は、丑年に公開される秘仏である。まだ12年毎の公開なら、待つことが出来る。
本堂に入って左右を見ると、かつて仁王門に安置されていたと思われる仁王像が無造作に置かれている。
本堂の隅は物置のようになっている。雑多な物の中に仁王像が置かれている。
かつては仁王門に安置されていたのだろうが、何かの理由で仁王門は廃されたのだろう。
本堂の裏には、帝釈天像の脇侍仏として道昭上人が刻んだ国指定重要文化財、聖観音立像を保管する、鉄筋コンクリート製の浄聖殿がある。
私が訪れた時は、扉が開いていた。お蔭様でありがたくも聖観音立像を拝観することが出来た。
杉の一木造りの御像である。本当に大宝二年の仏像かは分らぬが、かなり古い仏像に見えた。
帝釈寺には、弘安八年(1285年)に但馬守護職の太田政頼が幕府に提出した「但馬国大田文」を、宝徳四年(1452年)に帝釈寺住職尊阿が書き写した写本が伝わっている。
当時の但馬には、国衙領(朝廷の直轄地)が少なく、神社領、寺院領、荘園が多く、国衙の目代は、京から派遣された下級貴族と在地豪族の2人が務めたなど、中世の但馬の社会を知ることが出来る内容が書かれた文書らしい。
朝廷と宗教と武士の勢力が混在した中世社会は、興味深い社会だ。
帝釈寺には、客殿に面して江戸時代初期に築かれた築山式枯山水庭園がある。
温泉寺の本尊も、大和から漂着したとされる仏像であった。
帝釈寺の本尊が難波からここに漂着したというのはあり得ない話である。
古代には、何かの理由で中央から但馬に運ばれた仏像が、難を逃れるかのようにこの地域に祀られるということが、たびたびあったようだ。