兵庫県丹波市山南町岩屋にあるのが、岩尾山石龕(せきがん)寺である。
石龕寺は、岩尾山という山の中腹にある真言宗の寺院だが、この寺に至る参詣道には、麓の森地区からの岩屋道と、金屋地区からの寺坂道の二つの道がある。
石龕寺の参詣道には、奥の院までの距離を示す町石が残っている。町石とは、町石卒塔婆とも言って、寺社への道標として、一丁(約110メートル)毎に建てられたものである。
石龕寺の町石は、岩屋道に25基、寺坂道に5基残っている。これだけの数の町石が残る寺社は全国的に珍しく、高野山の町石と並んで有名で、石龕寺町石は兵庫県指定史跡となっている。
丹念に歩いて全ての町石を見て回りたかったが、時間の制約上代表的な町石だけを見学した。
町石は、写真のとおり、五輪塔が縦に伸びた形をしており、正面に仏像を刻み、その下に町数を刻んでいる。
八町石には、仏像の下に「仲春時正造立之己 八町 応永六年(1399年) 願主乗泉卯」と刻まれている。
今から約620年前の道標だ。
また、金屋地区から石龕寺に向って寺坂道を登り始めると、すぐ左手の木々の下に見えてくるのが、国指定有形民俗文化財の「金屋の十三塚」である。
金屋の十三塚は、石積みの十三基の塚が一直線上に並んだものである。
足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱で、直義に敗れた尊氏は、京都から敗走し、息子の義詮とともに石龕寺に逃げ込んだ。
その際、尊氏の13人の部下が奮戦して追っ手を食い止め、尊氏の逃亡を成功させたという。この十三塚は、尊氏がその13人の部下を弔うために築いたものという伝説がある。
全国には他にも十三塚があるが、盛土で築かれたものが多く、金屋の十三塚のような積石塚は珍しいらしい。
先ほどの伝説が実話かどうかは分からない。金屋の十三塚は、室町時代から真言宗で敬われるようになった十三仏と関係があるのかも知れない。
さて、石龕寺は旧氷上郡最古の寺院であり、創建は第31代用明天皇の丁未年(587年)とされている。
用明天皇丁未年(587年)、廃仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我氏が合戦(丁未の乱)に及んだ時、蘇我氏の側で出陣した聖徳太子こと厩戸皇子は、毘沙門天王像を刻んで戦勝を祈願し、像を携えて戦いに臨んだ。
この毘沙門天王像は、戦に勝利した後、空中で飛散してしまった。太子が飛散した像を求めて国中を探し、この地に来た時、石窟に毘沙門天王像が安置されているのを見つけた。
太子は、その毘沙門天王像を祀るため石龕寺を建立したとされる。
寺院は、鎌倉時代から室町時代にかけて最盛期を迎えるが、天正七年(1579年)の織田軍の丹波攻めにより、仁王門を残して焼失した。
仁王門は、天正以前から残る建物である。
仁王門の左右には、仏師定慶が仁治三年(1242年)に作った木造金剛力士像二躰が安置されている。
この金剛力士像は、桜の寄木造であり、鎌倉時代の銘品の一つだろう。国指定重要文化財だ。
また、仁王門の扁額は、平安時代の三蹟の一人、小野道風が書いたものと伝わっているが、書体の様式などから実際は鎌倉時代中期の作と言われている。
仁王門扁額は、兵庫県指定文化財となっている。
仁王門を潜ってすぐ右には修行大師像があり、左には古い石仏群がある。
石龕寺は、信長の丹波攻め以後衰えたが、江戸時代になって徐々に復興する。
昭和時代後半からは、紅葉の名所、足利氏ゆかりの寺として脚光を浴びるようになった。
参道を進むと、奥に毘沙門堂(本堂)が見えてくる。
毘沙門天王は、仏法の守護神である四天王の一柱だが、四天王として祀られる時は多聞天と呼ばれている。単体で祀られる時に毘沙門天王と呼ばれる。
槍を持ったその姿は、古来から戦いの神として尊崇されてきた。軍神上杉謙信が崇拝したことで有名である。
石龕寺毘沙門堂は、新しい建物である。この毘沙門堂に祀られている毘沙門天王像は、さすがに厩戸皇子が見つけたものとは異なるだろう。
毘沙門堂の隣には、薬師如来を祀る薬師堂があった。
毘沙門堂と薬師堂の間には、釈迦の足跡を表した仏足跡がある。
石龕寺には、寺宝として建武四年(1337年)に足利尊氏が奉納したとされる鰐口や、鎌倉時代中期の特徴を有する金剛鈴三口、応永二十八年(1421年)に彫られた両界曼荼羅版木を有する。いずれも兵庫県指定文化財である。寺院が最盛期を迎えた鎌倉・室町期に寄進されたものばかりだ。
もし丁未の乱で物部氏が勝利していたら、その後の日本の歴史は少し違ったものになっていただろうし、仏教の定着も遅れたかも知れない。
仏教が日本に広まることを願った厩戸皇子の祈りは、毘沙門天王に届いたようだ。