若桜往来、智頭往来沿いの史跡

 倉田八幡宮の参拝を終えて北上し、鳥取市正蓮寺にある面影山という小山に向かう。

 この山の西麓に建つ面影神社の鳥居の手前に、鳥取県指定保護文化財である木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像を祀る毘沙門堂がある。

毘沙門堂

 毘沙門堂は、新しい建物である。建物に近づこうとしたが、スズメバチが巣を作っていて、やたらと飛び交っていたので、退散した。

 木造毘沙門天立像は、甲冑に身を固め、宝冠を被っており、木造吉祥天立像は、腐朽が進んでいるが、豊かな表情をしているそうだ。両像とも杉の一木造で、平安時代中期に因幡に赴任した国司が、地元の仏師に依頼して制作したものと言われている。

 面影神社の鳥居の脇から、かつて毘沙門堂が祀られていた旧跡地への道が始まっている。

面影神社の鳥居

毘沙門堂旧跡地への道

 石段を登り、約60メートル歩くと、少し森が拓けた場所があり、その中央に四角く並んだ礎石のようなものがある。

 かつて毘沙門堂が建っていた場所であろう。

毘沙門堂の跡

 毘沙門堂が移転した理由は分からない。江戸時代まで面影神社は武王大明神と称していた。武王と武神の毘沙門天は通ずるものがある。

 江戸時代まで、武王大明神と毘沙門堂が一体化して祀られていたが、明治の廃仏毀釈で両者が分離され、武王大明神は面影神社となり、毘沙門堂は現在地に移されたのではないか。

 毘沙門堂旧跡地には、多聞杉と呼ばれる見事な杉がある。

多聞杉

 毘沙門天の別名を多聞天という。多聞杉は、多聞天から来た名である。

 多聞杉は、毘沙門堂が建てられた時に植樹されたという伝説がある。推定樹齢は約300年であるが、約600年という伝承もあるそうだ。

 樹高約30メートル、幹回り約4.6メートルの巨木である。毘沙門天同様に今も信仰の対象になっている。

 私も多聞杉に畏敬の念を覚え、頭を下げて拝んだ。

 さて、面影山の西側に、サンマート南店というスーパーマーケットがある。その駐車場の北東側の路傍に、正蓮寺の道標と呼ばれる石碑がある。

正蓮寺の道標

 ここには、大小2つの道標が建っている。

 大きい方の道標には、中央に延命地蔵尊の姿と尊号が彫られ、その左右に「右 いせ道、左 一ノミヤ道」と彫られている。

大きい方の道標

 鳥取城下と播磨を結ぶ若桜往来は、正蓮寺集落の西側を南北に通っていた。

 この道標は、元々はここより南西の大路川の近くの、若桜往来沿いの分岐点に建てられていたらしい。理由があってここに移転したようだ。

 側面には、「天保十五年(1844年)甲辰八月吉日」と彫られている。

天保十五年甲辰八月吉日の刻字

 「いせ道」とは、伊勢道のことである。江戸時代末期には、全国の庶民の間に伊勢参宮が流行した。

 伯耆東部や因幡から伊勢神宮に行く道は、若桜往来を通って宿場町若桜に至り、そこから東進して但馬との国境に聳える氷ノ山を越える径路が一般的であった。

 「一ノミヤ道」の一ノミヤは、因幡国一宮の宇倍神社のことである。宇倍神社は正蓮寺集落の東側にある。

 この道標に刻まれた内容からして、この道標は、南に向かう若桜往来と東に向かう宇倍神社への道の分岐点に、北西側を向いて建てられていたことだろう。

 その隣には、「右 いせみち、左 むらみち」と刻まれた小さい道標が建つ。

小さい道標

 この道標の方は、昔からここに建っていたそうだ。地図もナビゲーションもない時代の旅人は、こういった道標をたよりに歩きながら旅をしたのだ。

 さて鳥取城下からは、南東に向かう若桜往来と別に、美作を通過して播磨の佐用郡に抜ける智頭往来という道が延びていた。

 鳥取市の中心から智頭往来を南下すると、千代川沿いを通るようになる。千代川に架かる円通寺橋の北東側の民家の前に、円通寺一里塚の松が残っている。

智頭往来の円通寺一里塚跡のある民家の並び

 江戸時代に入って、徳川幕府は街道を整備した。旅の目印のため、一里ごとに塚を築き、そこに樹を植えた。

 塚に樹を植えて根を張らせることで、塚の風化を防ぐ意味もあった。
 徒歩の旅が廃れるにつれ、日本各地の街道沿いの一里塚は消滅していった。

一里塚の松

生き返った一里塚の松

 円通寺一里塚も、塚自体は無くなっているが、塚に植えられていた松は、民家の前に切断されながら残っていた。

 枯死して切断された幹が残るばかりだと思いきや、近づいてみると、切り株の上から新たな枝が生えて葉を生やしているではないか。

 江戸時代初期から、旅人の目印になった松が、一度枯死して切断されながらも、命を絶やさずに復活している姿に感動した。

 なんとなく、江戸時代がまだ死なずにここに生きているような気がした。

 さて、円通寺橋を渡り、智頭往来を南下する。智頭往来沿いの鳥取市河原町布袋にある木下家住宅を訪れた。

木下家住宅

 木下家住宅は、江戸時代初期に鹿野城主亀井氏が、参勤交代時の本陣として使った大庄屋木下家の家屋である。

木下家住宅の茅葺の門屋

 参勤交代中の大名行列は、街道沿いの宿場町で宿泊したが、藩主が宿泊した建物は本陣と呼ばれた。

 木下家は、地元の大庄屋であったが、本陣としての役割も果たしていた。

 木下家住宅の主屋は、改築された痕跡も少なく、整形六間取の形式を伝え、建立当時の式台、仏間、茅葺の門屋を有する貴重な建物である。鳥取県指定保護文化財となっている。

主屋の茅葺屋根

 木下家住宅は、公開されておらず、内部の見学は出来なかった。

 江戸時代の街道と、その道沿いにある道標、一里塚、宿場町、寺社の姿、行きかう人々を想像してみた。

 騒々しい現代にも、江戸時代の徒歩の旅の痕跡は生きているのである。