高座神社から西に行き、丹波市山南町太田の集落に入り、集落の奥に進むと、臨済宗の寺院、萬松山慧日(えにち)寺に辿り着く。
慧日寺の山門までは、短いが左右に杉が生えた薄暗い参道が続く。
慧日寺は、永和元年(1375年)に管領細川頼之が建立し、その弟特峯禅師を開山とする寺院である。
当初は18ヵ寺の塔頭寺院と46ヵ寺の末寺を有し、臨済宗妙心寺派の中本山として多くの修行僧を集めた。
しかし、天正三年(1575年)の明智光秀の丹波攻めの際に兵火に遭い、ほぼ全焼してしまった。
寛永元年(1624年)から同十九年(1642年)にかけて、大愚禅師、別心禅師により再建されたが、寛文七年(1667年)に火災で再度堂宇が焼けてしまう。
寛文十二年(1672年)から元禄十五年(1702年)ころにかけて再建が進んだ。今の建物は、元禄以降に建てられたものである。
参道を通って先ず迎えてくれるのは山門である。
山門の骨格部には、16世紀後半の部材も残っているが、後世大きな改変を受けた。屋根瓦の獅子口に、文政九年(1826年)の箆書きが残っているが、これが改変の時期を表している。山門は丹波市指定文化財である。
山門を潜ると、目の前に現れるのが仏殿である。
仏殿は、元禄十五年(1702年)の再建である。一重裳階(ひとえもこし)付き、檜皮葺の建物で、桟唐戸の左右に華頭窓が付いている。兵庫県下でも稀な、完全な禅宗様式の建築物である。
天井には龍の絵が描かれ、堂内には釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の釈迦三尊像が安置されている。
釈迦如来坐像は、内部から発見された印仏が押された冊子から、貞治四年(1365年)の作だということが分ったそうだ。
境内には、19世紀前半に建てられたと言われる経蔵がある。この経蔵は、国登録有形文化財である。
経蔵内部を見てみると、経巻を収めていると思われる抽斗の中央に、僧形文殊菩薩像が祀られている。
先ほど紹介した釈迦三尊像の向かって左側の獅子に乗っているのが、文殊菩薩だが、その文殊菩薩が人間の僧形になった像を僧形文殊という。右手に剣を持ち、左手に経巻を持つ姿だ。
慧日寺は、文政八年(1825年)に一切経を買い求めたという。この経蔵の抽斗に、一切経が収められていることだろう。
経蔵の前には、慶応三年(1867年)に建てられた国登録有形文化財の鐘楼がある。
仏殿と渡り廊下で繋がっているのが、方丈(本堂)である。
方丈は、茅葺入母屋造で、茅葺屋根を黄色い苔が覆っており、いかにも山中の禅宗寺院のようで、風情がある。
方丈に上ると、線香の香りが漂っている。
建物全体に線香の香りが染みついている。私は最近自宅で仏壇に線香を上げて読経するようになったが、おかげで線香は私にとって親しい香りになった。
方丈の北側には庫裏があり、渡り廊下で方丈と接続している。これも茅葺入母屋造の堂々とした建物だ。
方丈と庫裏は、江戸時代中期に建立されたもので、両方国登録有形文化財となっている。
庫裏の北側は、僧侶たちが生活する場であるが、南側は接客のための空間となっている。
庫裏南側には付書院があり、床の間もある。
付書院からは、方丈と庫裏の裏にある池水式の庭園が眺められる。
庭園背後の山の紅葉がみな落ちてしまって寂しい景色だが、これはこれで、禅に相応しい景色かも知れない。
庫裏の座敷には、虎を描いた衝立画や、貴族の行列を描いた屏風画があった。
慧日寺には、仏光国師(無学祖元)像、仏国国師(後嵯峨天皇の皇子、特峯禅師の師)像、夢窓疎石(特峯禅師の兄弟弟子)像、仏印心伝禅師(慧日寺開山特峯禅師)像の四人の禅師像が伝わっている。
師資相承を重視する禅宗の寺院で、4人の頂相(ちんぞう、禅僧の肖像画)が揃っているのは、慧日寺の寺格の高さを表しているという。
庫裏を出て東側に歩くと、国登録有形文化財の裏門がある。
裏門の柱には、文化三年(1806年)の札が打ち付けられており、少なくともそれ以前の建立とされている。
簡素な裏門を潜り、寺院を後にした。
床の間、畳、襖、障子などで構成された書院造は、現在に続く日本建築の様式の元であり、室町時代から安土桃山時代にかけて完成したものだが、禅の影響下に誕生したものである。
無駄な装飾のない簡浄な日本建築は、禅の厳しく張り詰めた世界観から生まれたものだろう。
道元禅師の「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり」という歌は、座禅の深い悟りの境地から眺めたありのままの日本の四季の姿を捉えた歌だとされている。
私が慧日寺を訪れた時、慧日寺の観光案内の方が、「紅葉が終ってしまいまして」と残念そうに語っておられたが、禅の境地からすれば、それも尊ぶべき自然の姿であろう。
道元禅師ではないが、冷しい気持で寺院を後にした。