佐古田堂山古墳の上から北方を望むと、龍王山が目に入る。
その麓に祀られているのが、最上(さいじょう)稲荷という日蓮宗のお寺である。正式名称を最上稲荷山妙教寺という。
最上稲荷は、京都府の伏見稲荷大社、愛知県の豊川稲荷と並んで、日本三大稲荷の一つとされている。
最上稲荷は、明治の神仏分離を免れ、今でも神仏習合の信仰形態を残す仏教系の「お稲荷さん」である。
参道の入口には、最上稲荷開山1200年の昭和47年に建てられた大鳥居がある。
鉄骨・鉄筋コンクリート製で、高さ27.5メートル、柱の直径4.8メートル、完成時は日本一の高さを誇る鳥居だった。
全体がベンガラ色に塗装されている。ベンガラは、古くから魔除けとして使われた。
扁額は、岡山県高梁市成羽町吹屋のベンガラ豪商西江家に伝わる江戸期ベンガラで塗装されていて、「紅柄(べんがら)」の字が金色に書かれている。
私が訪れた1月6日は、まだ正月の内である。最上稲荷には、初詣客と思われる家族連れなど、ものすごい数の参拝客が訪れていた。
昔伏見稲荷大社に行ったことがあるが、伏見稲荷は、外国人観光客が多い。最上稲荷の参拝客は、見たところほとんど日本人である。
最上稲荷は、岡山県下の寺社では、最大の初詣客を集める寺である。
大鳥居から最上稲荷まで、2キロメートルはあるが、その間は車がぎっしり連なって延々渋滞している。
最上稲荷の周囲には、広い駐車場が幾つも用意されている。その駐車場に何とか車をとめて、目についた石造の鳥居の方に向かった。
この鳥居が、最上稲荷の参道商店街の入口であった。参道前には、沢山の露天が並んでいる。
参道商店街に入ると、両脇に昭和の香りのする商店が軒を連ねている。参道は狭い。上りと下りの人の列が、ようやくすれ違うことが出来る混雑ぶりである。
私も、参道の途中にある老舗の食堂で、昔ながらの中華そばを食べた。
腹ごしらえをして、ゆるやかな上り坂の参道を登っていく。
天平勝宝四年(752年)、孝謙天皇の病気平癒の勅命を受けた報恩大師は、龍王山中腹にある八畳岩の上で祈願した。
すると報恩大師は、白狐に乗った最上位経王大菩薩を感得した。報恩大師は、最上位経王大菩薩の尊像を刻み、祈願を続けた。孝謙天皇の病は無事癒えた。
その後、延暦四年(785年)、桓武天皇の病気の際にも、報恩大師が尊像に祈願したことにより天皇の病が快癒した。
これを喜んだ桓武天皇の命により、現在の地に「龍王山神宮寺」が建立された。
これが、現在の最上稲荷の発祥である。
参道を歩き続けると、石材製の仁王門が見えてくる。
日本寺院の木造の仁王門と比べると、異色の建築物である。安置されている仁王尊像も、金色に塗られた派手な像である。
この仁王門は、昭和25年に旧仁王門が火災で焼失したことから、昭和33年に火災に強い石材で再建されたものである。
仏教考古学者石田茂作の発案で、東大工学部教授の岸田日出刀の設計により、インドの殿堂様式を取り入れて建造された。
当時日本唯一だった金色の仁王尊像は、仏師福崎日精により制作されたものである。
仁王門は、今では国登録有形文化財となっている。
仁王門の裏側には、金色の仁王尊像と対になるような形で、一対の白銀色の狐の像が安置されている。
それにしても、なぜ仏教とお稲荷さんが習合しているのだろう。
本尊の最上位経王大菩薩は、「法華経」のことである。「法華経」は、大乗仏教では「諸経の王」と呼ばれるほど、大乗経典の中で重きを置かれている。
この最上位経王大菩薩が、何故か稲荷神の使いの白狐に乗って報恩大師の前に現れたのだという。
お稲荷さんは、五穀豊穣、商売繁盛、開運招福などの現世利益を与えてくれる衣食住の神様である。
最高位の仏教経典と、現世利益を与えてくれるお稲荷さんが習合すれば、様々な願いを持つ人々にとっては、もはやこの上なく有難い神仏であろう。
最上稲荷のこの参拝客の多さも頷ける。
最上稲荷に祀られる神仏は、最上位経王大菩薩の他に、八大龍王尊と三面大黒尊天がある。
この三神は、最上三神と呼ばれ、本殿(霊光殿)に祀られている。
八大龍王尊は、龍王山に棲むとされる水の神様である。日本各地に祀られている龍神は、水の神様である。日本の古くからの蛇神信仰から来たものと思われる。
稲荷神と蛇の関係は深い。稲荷系の神社に行くと、「お狐さん」の像だけでなく、「巳(みー)さん」と呼ばれる白蛇の像が祀られていることが多い。
稲荷神は稲の神様である。稲作に水は欠かせない。お稲荷さんと龍神との関りが深いのは当然だろう。
最上稲荷は、インドのヒンズー教の聖地を思わせるような、賑やかで民衆的な多神教的空間であった。
ここを参拝したことで、日本人にとっての信仰について、深く考えることが出来た。