岩尾山石龕寺 後編

 石龕寺の境内には、寺の鎮守の神様を祀る焼尾神社がある。

 焼尾神社本殿は、覆屋に囲まれて保護されている。

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焼尾神社

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焼尾神社本殿

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本殿脇障子

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 焼尾神社は、仁治二年(1241年)の創建と伝えられる。石龕寺金剛力士像が造られた仁治三年の前年に当る。

 焼尾神社には、古くは弁財天が祀られていたが、明治維新後の神仏分離令後は、市杵島比命(いちきしまひめ)命を祀るようになった。

 本殿がいつ建ったものかは分からぬが、檜皮葺、一間社流造の、簡素な社である。覆屋に守られているおかげで、痛みも少ない。

 焼尾神社の建つ場所は、石段を登った高台にあるが、ここから毘沙門堂と薬師堂を眺めることが出来る。

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毘沙門堂と薬師堂

 石龕寺の毘沙門堂から東に歩くと、奥の院へ至る道がある。奥の院は、聖徳太子毘沙門天王像を見つけたとされる石窟のある場所である。

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奥の院への道

 奥の院橋を越えて、急な山道を登っていく。途中、役行者不動明王の石像が祀られた場所がある。

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役行者像と不動明王

 新しい像であるが、岩尾山が山岳霊場であることを示している。

 奥の院に至るには、それほど時間はかからぬが、そこに至るまでの道が険しく、結構難儀する。

 途中、見晴らしのいい角地に石垣があったが、かつて岩尾山に城砦でもあったのだろうか。

 後で書くが、岩尾山は、観応の擾乱の際に足利義詮が立て籠もった場所である。その事とこの石垣に関連があるかは分からない。

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石垣

 更に登り、ようやく鐘楼のある場所に辿り着いた。

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鐘楼

 鐘楼から振り返ると、麓の集落や田畑を眺めることが出来る。丹波が山々の中にある国であることを実感する。

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鐘楼からの眺め

 ところで、鐘楼や奥の院の建物は、どうやら平成6年に新たに整備されたようだ。しかし、古くから聖徳太子ゆかりの霊地として崇拝されてきたことだろう。

 奥の院は、石窟と建物が一体化したものであり、石窟の奥に毘沙門天王の石像が祀られている。

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奥の院

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毘沙門天王像

 毘沙門天王像も新しいもので、ここ最近据えられたものだろう。

 奥の院の隣には、修験道の本尊である蔵王権現の像が祀られている。

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蔵王権現

 蔵王権現は、役小角が吉野金峯山で修行中に示現した仏と言われる。日本で祀られる仏菩薩諸尊諸天善神は、インド由来のものばかりだが、この蔵王権現は日本独自の仏である。

 吉野金峯山寺には、巨大な三体の蔵王権現像が祀られている。

 蔵王権現の奥には、足利尊氏の息子義詮(よしあきら)が2カ月留まったとされる足利将軍屋敷跡がある。

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足利屋敷跡

 観応の擾乱で、形勢が不利になって京を脱出した尊氏、義詮父子は、丹波路から山陰に向けて逃亡し、西国で味方を集め再起を図ろうとする。

 尊氏は、義詮に腹心仁木頼章、仁木義長兄弟を付け、2000人の兵と共に石龕寺に留め置いた。

 その時のことは、「太平記」巻二十九に記載がある。

 石龕寺衆徒は、尊氏に無二の忠誠を誓っており、近隣の国人衆も義詮の下に馳せ集まった。

 石龕寺は、義詮勢に兵糧を与えて休息の場を提供した。

 院主雲暁僧都は、奥の院の前で勝軍毘沙門法という、毘沙門天王に勝利を祈願する修法を行ったという。

 尊氏・義詮は最終的に直義方と和議を結んだ。義詮は石龕寺に帰依し、寺領を寄進したという。

 中世の寺社は、武装した兵力を有する独立した武装集団であり、そんな寺社を味方に付けられるかで戦況が左右された。

 石龕寺は天正年間に織田軍に焼き払われたが、比叡山一向宗門徒に限らず、信長は日本の中世的なものの代表である武装した宗教勢力を日本から一掃することに腐心したようだ。