鬼の岩屋の見学を終えて、府道9号線に戻って北上した。
私は当初、宮津市小田から府道16号線に入って峠を越え、先ほど山上から見下ろした加悦谷の史跡を訪れようと考えていた。
ところが府道16号線が工事中で、途中から通行止めになっていた。そこで予定を変更して、宮津市の史跡を巡ることにした。
宮津市に入って最初に訪れたのは、宮津市喜多にある曹洞宗の寺院、大円山盛林寺である。
寺伝によれば、盛林寺は、天正五年(1577年)に上宮津城主小倉播磨守の菩提寺として、宮津大久保谷に創建されたという。
開山は、現在の福井県武生市にある越前瑞洞院の四世、趙室宗栢和尚である。
慶長八年(1603年)に寺は現在地の南側にある寺谷に移った。更に貞享二年(1685年)に現在地に移った。
小倉播磨守は、丹後守護だった一色氏の重臣である。
天正六年(1578年)、信長の丹後平定の命を受け、明智光秀と細川藤孝の軍勢が丹後に侵攻した。
小倉氏は、細川藤孝により滅ぼされた。丹後平定後、藤孝は宮津城を築城し、丹後の大名となった。
盛林寺は、小倉播磨守の菩提寺だったが、新しい支配者の細川氏とも良好な関係を築いた。
寺には、天正九年(1581年)十二月に生まれて、翌年九月に夭逝した細川藤孝の子、菊童の肖像画である、絹本著色即安梅心童子像が伝わっている。宮津市指定文化財である。
本堂に上がると、禅堂によくある龍の水墨画を描いた襖が立てかけてある。
こちらをぎょろりと睨む龍の眼は、まるで「お前は何者か」と問うているようだ。
おのれが何者か。その答えは生涯を通じて自分で見つけなければならない。
須弥壇の周りを取り囲むように、十六羅漢像を描いた掛け軸が掛かっている。
また本堂の格天井には、白地に青色の雲の模様をあしらった布が貼られている。
鮮やかな色彩だ。
この寺には、文禄元年(1592年)から明治7年に至るこの地方の故人の名を記した過去帳や、室町時代の絹本著色仏涅槃図など、2つの京都府指定文化財が伝わっている。
境内には、観照蔵という名の蔵があった。ここに寺宝が保管されているのだろうか。
盛林寺には、守護大名一色氏の時代から続く、丹後の歴史が色濃く流れているように感じた。