八角堂から西に向かうと上り坂になる。
五智如来と呼ばれる、金剛界曼荼羅の中央に描かれる如来の石像がある。
写真の右から順に、阿閦(あしゅく)如来、不空成就(ふくうじょうじゅ)如来、大日如来、阿弥陀如来、宝生(ほうしょう)如来である。
大日如来以外の4体の如来は、それぞれが大日如来の一面を表した如来とされている。五智如来は、密教の5つの智慧を象徴した存在である。
五智如来像の隣に、平清盛が創建したとされる出世稲荷が建っている。
出世稲荷は、元々清盛が福原に遷都した時に、都の守り神として、湊川のほとりに建てたものである。
その後、立身出世、事業成功の神様として、庶民に崇敬された。
明治中期に、湊川の改修に伴い、出世稲荷は平家にゆかりの深い須磨寺境内に移されたという。
出世稲荷の隣には、鮮やかな色彩の三重塔がある。私が史跡巡りで訪れた17番目の三重塔になる。
見た所、新しい三重塔である。昭和59年に再建されたものらしい。旧塔は、約400年前の文禄大地震で倒壊したという。
内部に大日如来を祀り、四方扉の内面に真言八祖像と六ヶ国語による般若心経を刻銘しているそうだ。
私が今まで史跡巡りで訪れた三重塔の中では、最新のものである。
この三重塔の周りを四国八十八ケ所のご本尊となっている石仏が囲んでおり、その石仏の前のガラス板の下には、四国八十八ケ所霊場のお砂が埋めてある。
ここを参ることにより、四国八十八ケ所を実際に巡ったのと同じ御利益があるという。
さて、三重塔の隣には、五猿のオブジェが置かれている。
見ざる、言わざる、聞かざるの三猿は著名だが、それに「おこらざる」と「見てござる」を付け加えて五猿としている。よく見ると、おこらざるの像は、「かんにんぶくろ」を持っている。
ふざけているようにも見えるが、こういうお茶目なオブジェを置くのも真言宗寺院の特徴である。
三重塔の西隣には、須磨の仇浪(あだなみ)親子地蔵が祀られている。
須磨の仇浪とは、大正から昭和初期に何度も舞台上演されたり映画化された演題である。
明治27年に播磨国美嚢郡に生まれた豪農の娘土居愛子は、大正2年に二十歳で淡路の川上家に嫁入りした。しかし家庭不和が原因で、大正4年に、愛子は須磨沖を航行中の汽船から、2歳の愛娘初音と共に身を投げて死んだ。
2人の遺体は須磨浦に漂着し、近くの須磨寺で葬儀が営まれた。
同年、家庭不和から母子心中した2人の悲劇を、脚本家羽様荷香が、当時の神戸新聞に、「須磨の仇浪」という題名で連載した。
これが世間の注目を浴び、同年2人を弔うため、この親子地蔵が造立された。
現代よりも女性の地位が低く、離婚も容易ではなかった当時には、大いに世間の同情を集めた出来事だったようだ。
今年11月8日の「敦盛塚」の記事で紹介した敦盛塚は、敦盛の胴を埋めた塚だと伝えられている。
首は須磨寺まで運ばれて、首実験が行われ、ここに手厚く葬られたようだ。塚の前で敦盛の冥福を祈った。
昭和20年8月9日、ソビエト連邦軍は、日ソ中立条約を破棄して、突如満州、朝鮮半島、南樺太、千島列島に侵攻を開始した。
この際、ソ連の捕虜となった日本軍兵士等は、シベリアの収容所に収容され、強制労働をさせられた。
シベリアの雪原で、多くの日本人が亡くなった。亡くなった日本人は、墓標もない凍土の下に葬られた。
この慰霊碑は、ソ連崩壊前で、遺骨収集や墓参もままならなかった昭和57年に建てられたものである。
慰霊碑の前のクマの石像は、「ミーシャ熊」という愛称で呼ばれていて、頭を撫でると、一弦須磨琴で演奏された「異国の丘」という曲が流れる仕掛けになっている。
私が20年前に須磨寺を訪れた時は、ミーシャ熊の頭を撫でても曲が流れてこなかった。ふと見るとミーシャ熊の像に、「ミーシャ熊はお休み中です」と書いた貼り札が貼ってあった。故障中だったのだ。20年経って、ミーシャ熊は眠りから覚めたと見える。
さて、須磨寺には奥の院がある。境内からエレベーターで奥の院の近くの裏山駐車場まで上ることが出来る。
エレベーターのある建物には、敦盛に関する美術品が多数展示してある。中でも敦盛が愛用の笛を吹いている日本画が優美であった。
奥の院の周辺には、七福神と真言宗で重視されている十三仏が祀れらていて、山中に参拝コースが広がっている。
参拝路の最も奥には、波切不動明王の石像が祀られ、弘法大師を祀る奥の院のお堂がある。
お堂の賽銭箱の手前には、大きな五鈷杵が置かれ、五鈷杵に五色の紐が結ばれている。
この紐がお堂の中の弘法大師像とつながっていて、五鈷杵を撫でると、弘法大師と御縁を結ぶことが出来るとされている。
奥の院のお堂の前には、遠く高野山奥の院の方向を向いた遥拝所がある。
いつか弘法大師が今も入定しているという高野山奥の院に行きたいものだ。
ところで、須磨寺南側にある須磨大池には、明治中期に1000本の桜が植えられて、明治末期には遊園地も作られ、桜の名所となっていた。
今は、池もかなり埋め立てられ、桜の本数もかなり減ったようだ。往時ほどではないが、池の周囲を桜が囲んでいた。
桜の季節の須磨寺も、いいものかも知れない。
参拝して、須磨寺は、ユーモアと包容力のあるお寺だと感じた。慰霊の寺として、これからも人々の崇敬を集めることだろう。