須磨寺駅の東側出口のすぐ傍に、「平重衡とらわれの松跡」がある。今は小さな祠があるだけである。
かつてこの辺りには、大きな松の木があったという。
平重衡は、平清盛の五男で、平家を代表する武将だった。重衡は、寿永三年2月7日の一の谷の合戦で、生田の森に布陣していたが、源氏の軍に敗れ、須磨まで落ち延びて来た。
重衡はこの辺りで源氏の軍に捕らわれ、ここにあった松の幹に腰をかけ、無念の涙を流したという。
それを哀れんだ地元民は、重衡に濁り酒を差し入れした。重衡は喜び、「ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて 須磨で飲むこそ 濁酒なれ」という一首を詠んだ。
重衡は後に鎌倉に送られ、処刑された。
平重衡とらわれの松跡から東に歩くと、「菅の井」がある。須磨区天神町5丁目になる。
延喜元年(901年)に菅原道真が大宰府に左遷させられた時、須磨の地に上陸し、漁民が綱を巻いて作った円座に座って休憩した話は昨日の記事で書いた。
その時に地元の豪族前田氏が、この井戸から汲んだ水を道真に捧げた。道真は大層喜び、自画像を前田氏に与えたという。
それ以来、前田氏はこの井戸を菅の井と呼ぶようになった。前田氏は、以後菅の井の水で造った銘酒「菅の井」を毎年太宰府天満宮に奉献するようになったという。
前田氏は、神功皇后の時代から続く豪族で、ここはその屋敷跡になるという。
菅の井の側に、菅原道真が植えたという、「菅公お手植えの松」の幹が残されている。
菅原道真ゆかりの地が、ことごとく聖蹟として祀られているというのは、思えば不思議なものだ。
菅公の物語は、昔の人の心を打ったのだろう。
ここから更に東に歩き、須磨区離宮前町1丁目にある松風村雨堂に至った。
三十六歌仙の一人、在原行平は、平城天皇の孫で、「伊勢物語」の主人公在原業平の兄である。
仁和二年(886年)、行平は光孝天皇の怒りを買い、須磨の地に流された。
行平は、今この松風村雨堂のある場所に侘び住まいをしていたと言われている。
ここから北に行ったところに、多井畑(たいのはた)村があった。村長の娘である姉妹が、汐を汲みに毎日行平宅の側を通っていた。
行平と姉妹が出会った時、松林を一陣の風が吹き抜け、娘たちの頬を通り過ぎ、にわか雨が姉妹の黒髪に降りかかった。そこで行平は、姉を松風、妹を村雨と呼んで寵愛するようになった。
後に行平は天皇に許され、都へ帰った。行平は、姉妹に「立ちわかれ いなばの山の峯におふる 松としきかば 今かへりこむ」という和歌を残し、形見として、かたわらの松の木に烏帽子と狩衣をかけて遺した。
いなば(稲葉)山は、松風村雨堂の北側にあった山で、行平が月を愛でた場所なので別名月見山とも呼ばれた。
別れても、稲葉山の側に住む松風村雨の名を聞いたら、すぐに帰ってこよう、という歌意か。
お堂の脇に、行平が狩衣をかけた衣掛の松の幹が残されている。その横には、三代目の衣掛の松が生えている。
松風村雨姉妹は、行平が去った後、行平の旧居跡に庵を結び、観世音菩薩を祀り、行平の無事を祈った。
二人が祀ったとされる、観世音菩薩を安置するお堂が中央にある。その脇には、多くの供養塔が集められている。
中央の供養塔には、松風村雨と彫られている。
この姉妹の逸事は、中世になって謡曲の「松風」でも取り上げられている。
さて、松風村雨姉妹は、晩年は多井畑村に帰って没したと伝えられる。
須磨区多井畑にある多井畑厄除八幡宮の近くに、松風村雨の墓と伝えられる二基の五輪塔がある。
小さな五輪塔で、実際のところはどうか分からぬが、このささやかさが松風村雨の墓に相応しく感じた。
すぐ近くに、一の谷の合戦で敗れてこの場所で自害した落武者の墓も並んでいた。
須磨という地は、海と砂浜と松と風と月の名勝だ。後世の日本人に、須磨が風流の地だという印象を与えたのが、行平と松風村雨の物語だろう。
後世の文人は、行平が侘び住まいをして月を愛でたというイメージに憧れて、この地を訪れた。
紫式部は行平に仮託して、「源氏物語」の須磨の巻を書いた。芭蕉も蕪村も行平を夢見て須磨を訪れたことだろう。
たった数人の男女の物語が、後世の人のその地の印象を決定づけることがあるのだ。