神戸市須磨区多井畑宮ノ脇の多井畑(たいのはた)厄除八幡宮を参拝する。
地元では「やくじんさん」と呼ばれており、厄除祭で著名な神社だ。祭神は第15代応神天皇である。
称徳天皇の神護景雲四年(770年)に、全国に大流行した悪疫を鎮めるため、畿内の国境10か所に疫神が祀られた。
摂津ー播磨の国境付近のこの地にも疫神が祀られた。これが通称多井畑厄神の発祥である。
疫病が畿内に入ってこないように、防御線を布いたのだろう。この事は、「続日本紀」にも記載があるという。
長い石段を登っていくと、正面に拝殿がある。銅板葺きの簡素な社殿が見えてくる。
その後、安元年間(1175~1177年)に男山八幡宮の八幡大神を勧請し、社殿を築いた。
八幡信仰と厄除信仰が合体して、今の多井畑厄除八幡宮となった。
私も厄年の時は、地元の氏神さんの厄落としの行事に参加した。そのおかげかどうか分からぬが、今まで大過なく過ごせている。
拝殿から奥を見ると、立派な唐門があり、その奥に本殿がある。
本殿は塀に囲まれて屋根が僅かに見えるばかりだが、銅板葺きの立派な社殿だ。
さて、本殿脇の石段を登っていくと、神護景雲四年に祭儀が行われた疫神塚跡がある。
畿内の外縁に、このような塚があと9基あるわけだ。
今年9月12日の「海神社」の記事で紹介した神戸市垂水区の海神社は、播磨と摂津の海の境の神とされているが、多井畑厄除八幡宮は陸の境の神という位置づけである。
かつては、地理的に重要な場所に神社を祀るという習慣があったようだ。
さて、多井畑厄神から少し西に行くと、寿永三年(1184年)の一の谷の合戦の前に義経が腰をかけたという「義経腰掛の松」がある。
寿永三年2月7日未明、多井畑厄神に戦勝祈願の参拝をした義経一行は、この松の下で休憩を取ったあと、一の谷に向かったという。
義経が一の谷の合戦で大勝したことを思うと、多井畑厄神は戦勝祈願としてはかなりの御利益がある神様ということになる。
義経腰掛の松の近くには、祠があり、宝篋印塔や供養塔がある。
宝篋印塔は、おそらく南北朝期のものだろう。源平合戦の戦死者を供養するものだろうか。
昔は日本の人口も今よりずっと少なく、神社は今よりもっと目立つ存在だったろう。そんな時代には、神社が地理的に重要な位置に建っていることが理解しやすかったと思われる。
人口密集地にある現代の神社も、周りの民家やビルを取り払ったところを想像して見てみると、そこに建っている意味が理解できるかも知れない。