兵庫県南あわじ市福良(ふくら)は、古くから淡路から阿波に渡る船が発着する港であった。
古代律令制で定められた南海道の福良駅が置かれた場所でもある。
江戸時代には、徳島藩の屋敷や番所が置かれた。近代になってからも、大鳴門橋が完成するまで、徳島と淡路を結ぶ汽船の発着所として、南淡路の玄関口だった。
福良の町の北側にある岡尾山からは、その福良港を一望することが出来る。
岡尾山から見たら、福良港が、壺のように海が陸地に入り込んだ天然の良港であることが分かる。
岡尾山には、頂上付近まで自動車道が通っている。自動車道を登っていくと、右手に岡尾山新四国霊場の入口が見えてくる。
天保八年(1838年)に福良で疫病が流行り、福良の人口3,300人の内、1,300人が亡くなった。人口の3分の1以上が死んだのである。
その時亡くなった死者の供養のため、中山から鳥取までの集落沿いに、四国八十八か所霊場を模した石仏が祀られた。
明治になって、石仏は岡尾山に移転され、岡尾山新四国霊場となった。
阿波には、四国八十八か所霊場の第1番札所がある。阿波は霊場巡りの始まりの地である。
阿波に渡る渡船場のあった福良の地に、新四国霊場があるのは、いかにも相応しい。
岡尾山の南東にある馬宿という地域の谷間は、かつて南海道の福良駅があったとされる場所である。
福良警部派出所前交差点の北西側の谷間が、その場所である。
南海道の次の駅は、阿波の牟夜(むや)である。
さて、福良港に面して道の駅福良があるが、道の駅周辺の駐車場はどこも満杯で、福良が観光名所であることが分かった。
かつては福良と徳島を結ぶ渡船がここから発着したが、今は鳴門の渦潮を海上から見学できる「うずしおクルーズ」乗り場がある。
うずしおクルーズには、咸臨丸という帆船風の船が就航している。渦潮が発生する時間帯に、咸臨丸が鳴門海峡に乗り出して、観客に見学させるわけだ。
私は平成12年6月に、妻とホンダ・ライフで淡路島一周ドライブをしたが、その時に咸臨丸に乗って船上から鳴門の渦潮を見学した。
なかなか感動的な風景であった。
道の駅福良には、土産物屋やレストラン、足湯施設があって、日曜日の観光客でごった返している。
道の駅福良の真向かいに、淡路人形浄瑠璃館がある。淡路は人形浄瑠璃が盛んな地域であった。
その伝統を受け継ぐ淡路人形座が、毎日ここで人形浄瑠璃を上演している。
淡路人形浄瑠璃館は、独特の流線型のデザインをした建物だった。
私が訪れた日は休館日だった。
さて、福良港の西側に、山頂に休暇村南淡路が建つ弦島(つるしま)がある。かつて源平合戦の時に淡路の源氏方が籠城した弦島(鶴島)城があった場所である。
その北東には、平敦盛の塚がある煙島がある。
煙島の東には、洲崎という砂洲がある。洲崎には、江戸時代に徳島藩の番所が置かれ、福良港に出入りする船を監視していた。
煙島には、一の谷の合戦で熊谷直実に討たれた平家の若武者・平敦盛の首級を葬った跡とされる敦盛塚があるという。
伝説では、敦盛を討った熊谷直実が、敦盛の首級と形見の横笛を、屋島に落ち延びる途中、福良に滞在していた敦盛の父・平経盛に届けさせた。経盛は、煙島に敦盛の首級を埋葬し、塚を建てたのだという。
敦盛塚は、須磨にもある。また敦盛愛用の横笛は須磨寺に伝わっている。
煙島に敦盛の首が埋葬されたのは、史実なのかどうか分からない。
弦島城は、淡路の源氏方である源義嗣、源義久が拠点としていたが、六ヶ度の戦で平能登守教経に攻撃されて落城したという。
弦島城跡のある弦島山頂には、休暇村南淡路があり、そこから福良港を見下ろすことが出来る。
弦島は今は淡路本島と陸続きだが、かつては島だった。
ここから眺めると、福良港に出入りする船を全て把握することが出来る。天然の要害だったことだろう。
播磨の室津港もそうだが、港の良し悪しは、地形と水深で決まる。
古くから、南海道を行き来した人たちは、良港である福良から乗船したり、ここで下船したりしたことだろう。
福良港の先は、四国である。