JR津山駅前には、今年7月30日の当ブログ「津山洋学」の記事で紹介した、津山藩を代表する幕末の洋学者、箕作阮甫(みつくりげんぽ)の銅像がある。
大体駅前に設置される銅像は、その地域が最も誇りとする人物や、その地域を象徴するものの像である。津山にとっては、箕作阮甫が郷土の誇りとすべき人物のようだ。
津山駅前から北に歩くと、吉井川に架かる今津屋橋がある。その橋の北詰の船頭町、河原町は、かつては高瀬舟が泊まり、殷賑を極めた町である。
今は、船頭町のビルの挟間に津山城跡の石垣が見える。
津山城は、森蘭丸の弟・森忠政が、慶長八年(1603年)に美作国18万6500石を受封した後、翌年から元和二年(1616年)まで12年かけて築城した平山城である。
五層四庇の天守を始め、華麗な城郭建築を誇ったが、明治6年(1873年)の廃城令に基づき、明治8年に破却された。今は城の石垣と再現された備中櫓があるのみである。
津山の百貨店である天満屋の屋上から、津山城跡の石垣の全貌を望むことが出来る。
津山城跡の石垣の美を味わうことが出来るのは、城の南東にある宮川大橋からの眺めである。
小高い丘の上に幾重にも築かれた石垣の姿をよく見ることが出来る。
津山城跡には南側の石段を上がり、城跡に入っていくルートが一般的である。
石段を突きあたると、目の前に大きな石垣の壁が立ち塞がる。
津山城跡の石垣は、近江国穴太(あのう)衆が築いたものである。穴太積は、穴太衆が築いた野面積みの石垣のことで、大きな石の隙間に小さな石を入れて埋めているが、ある程度隙間を残している。緊密に石を組むより、この方が耐久力があるのだろう。
それにしても、大きい石の隙間を埋める小さな石の嵌り具合は絶妙である。
よくもこんなに不揃いな形の石を互い違いに埋め込んで構築したものだ。
なかなか恰幅の好い、豪放な性格を思わせる像だ。
森忠政公の像を過ぎると、城跡への入口の表門出入口がある。
津山城跡は、明治33年に津山町有となり、鶴山(かくざん)公園として一般公開されるようになった。その後、城跡には桜が多く植えられ、全国有数の桜の名所になった。桜の季節の鶴山公園は非常に美しい。
津山城が建築された頃は、日本の城郭建築が最盛期を迎えたころであった。津山城の縄張りは巧妙で、攻守両面において優れており、近世平山城の典型例であるという。
入口から天守までは、石垣に左右を囲まれた、幾重にも折れ曲がった道を行かなければならない。
表門出入口正面の石段を上がったところにあるのが、鶴山館である。
この鶴山館は、元々は修道館という名で、明治4年に建てられた津山藩の学問所で、廃藩置県まで藩士の教育の場であった。
修道館は、今の鶴山公園よりも南にあった京橋門の近くに建てられ、廃藩置県後は様々な学校の校舎として利用されたが、明治37年にこの場所に移築され、その際に鶴山館と名付けられた。
内部には、津山城に関する写真や説明板などを展示している。
明治8年の廃城直前に撮影された津山城の写真が展示してあった。
この城郭が現存していたらと惜しまれてならない。
鶴山館の前からは、復元された備中櫓を望むことが出来る。江戸時代には、備中櫓の向うには、天守が聳えているのが見えた筈だ。
鶴山館から備中櫓を目指して歩き始める。この日は猛烈な暑さで、恐らく気温は37℃には達していたことだろう。熱風の中を歩くようだ。
途中、石垣から下を見ると、表門出入口からの道が石垣に囲まれ、コの字型になっているのが見えた。
このように、コの字型の道を歩む敵を頭上から弓矢や鉄砲で攻撃することを想像すると、この城を攻略するのは一苦労だなと思う。
津山城跡に、かつての天守や各櫓、土塀が残っていれば良かったとも思うが、石垣だけが残る今の津山城跡の姿も、寂びた風情を出していて、なかなかいいものだ。