慶野松原から兵庫県道31号線を南下し、三原川にかかる御原橋の北詰の交差点を右折西進する。
川沿いをしばらく進むと、右手に叶堂(かなど)城跡の石碑が建っている。
叶堂城は、慶長五年(1600年)に豊臣氏の代官石川光之によって築城された。
この地域は、元々志知城主加藤嘉明の所領だったが、加藤嘉明が文禄四年(1595年)に文禄の役の功で伊予松前城に転封となると、光之がこの地の領主となった。
光之は、志知城に代わる水軍の拠点として、叶堂城を築城した。
城は、南北約150メートル、東西約200メートルに及び、城の南西角に穴太(あのう)積みの石垣があったという。
光之が叶堂城を築いてすぐに関ケ原の合戦があった。光之は西軍に属していたため、戦後に改易となり、叶堂城も廃城となった。
元和七年(1621年)、叶堂城跡に感応寺が移転してきたが、昭和59年の三原川拡幅工事に際して、感応寺はここより約300メートル上流に移転した。
元の叶堂城跡は、この拡幅工事の際に破壊されてしまったのだろう。
さて、叶堂城跡の石碑から約300メートル東に行くと、叶堂城跡から移転した真言宗の寺院、松帆山感応寺がある。
感応寺の境内に入ってすぐ右手に、穴太積の石垣の碑がある。
この石碑の下の石垣は、昭和60年に、穴太積みの伝承者粟田万喜三が、叶堂城跡の石材を用いて、穴太積みの石垣を再現したものである。
実に緊密に積まれた見事な石垣である。
さて、感応寺の観音堂と梵鐘堂は、城塞と見まがう石垣と鉄砲狭間を備えた小丘上に建っている。叶堂城跡を意識して築かれたものだろう。
小丘の下側の石垣の石材は、時代がついているように見える。ひょっとしたら叶堂城跡の石材を再利用したものかも知れない。
叶堂城跡の石垣は、廃城となった志知城の石垣を再利用したとも言われている。となると、この石材も、元は志知城にあったものかも知れない。
感応寺は、元々倭文庄感応寺山に創建された寺である。
寺は、永正五年(1508年)に火災に遭い、古津路村叶堂に移転した。慶長五年に、石川光之が叶堂城を築城することになったため、松原中に立ち退いた。
しかし関ケ原戦後に叶堂城が廃城となったため、寺は叶堂城跡に戻った。
感応寺は、淡路西国第十四番観音霊場である。観音堂に聖観世音菩薩像を祀っている。
観音堂の蟇股には、波間に漂う梵鐘の彫刻が彫られている。珍しい彫刻だ。
この寺には、文明七年(1475年)の紀年銘と、淡路守護細川成春と倭文領主藤原親秀の寄進銘のある感応寺梵鐘が伝えられている。
感応寺梵鐘は、梵鐘堂内部にてケースに入れられて保管されている。南あわじ市指定文化財となっている。
この梵鐘は、いつのころか西播磨の新山寺に何者かの手によって移されたが、いつの間にか感応寺に戻ってきたそうだ。様々な伝説のある梵鐘のようだ。
本堂は、巨大な鉄筋コンクリート製の建物である。
感応寺は、叶堂城とのゆかりが強い寺である。
淡路には、昔から海人という舟の漕ぎ手が豊富にいた。戦国時代、安土桃山時代には、三原の海人は、水軍の兵士になって海を渡った。
三原川の河口に近く、すぐに播磨灘に船で出られるこの地は、水軍の拠点として恰好の場所だったのだろう。
感応寺に残る石材は、そんな水軍の時代の記憶を留めていることだろう。