岡山市北区金山寺に、報恩大師が創建した備前四十八ケ寺の一つ、金山寺がある。
金山寺は、天平勝宝元年(749年)に報恩大師が創建したという伝承があり、往古は、備前四十八ケ寺の根本道場として栄えた。
寺院は、元々は金山の頂上の、現在妙見宮が建つ場所に建っていたが、康治元年(1142年)に現在地に移った。
この寺院は山上の伽藍であり、寺に至るには狭い山道を車で上って行かなければならない。
しばらく山道を進み、開けた場所に出ると、仁王門が見えてくる。
仁王門は、正保二年(1645年)の建築だが、瓦が崩れ出しており、修復工事中であった。仁王門は岡山市指定重要文化財である。
内部の仁王像も、正保二年のものだろうが、塗料が剥落している。完成時は鮮烈な色彩の像だったろう。
仁王門を過ぎ、石段を上ると、護摩堂に至る。
護摩堂は、天正三年(1575年)に建てられた。岡山県指定重要文化財である。
金山寺は、建立当初法相宗の寺院だったが、嘉応年間(1169~1170年)に、宋から帰国した栄西禅師が入山し、灌室、護摩堂を建立して、天台宗の寺院となった。
栄西は日本臨済宗の開祖として知られるが、元は比叡山で出家した天台宗の僧侶であり、天台密教の両部灌頂を受けている。
金山寺は、文亀元年(1501年)に備前金川城主松田左近将監から日蓮宗に改宗することを迫られた。それを拒否すると、松田の手勢により全山焼き討ちに遭った。
その後、永禄四年(1561年)、同じ天台宗寺院の伯耆国大山寺から法印円智が入山した。
天正に入り備前を制圧した宇喜多直家が円智に帰依した。金山寺は直家の庇護を受け、天正三年(1575年)に護摩堂と本堂が再建された。
護摩堂は、密教の重要な儀式である護摩行をする場所で、奥には不動明王を祀った厨子が置かれ、堂内中央には護摩壇がある。
厨子には華麗な装飾が施されている。
護摩堂の天井は、火炉からの熱気を逃がすため、折上天井になっている。
護摩行には、自分自身の心を護摩壇に見立て、仏の知恵の光で自身の煩悩を焼き尽くす内護摩と、外部に築いた護摩壇で護摩木や供物を焚いて祈願する外護摩がある。
護摩木を焚いて陀羅尼を唱え、祈祷を行う護摩行というものを、一度間近で見てみたいものだ。
護摩堂の奥には、客殿、庫裏、書院などが石垣の上に建ち並んでいる。如何にも山上伽藍の威容を有する。
これらの建物は、古くなって漆喰が剥落し始め、一部壁土が顔を覗かせている。それが逆に寂びた味わいを出している。
客殿の玄関は豪華な唐門となっている。彫刻も立派だ。
庫裏の前に、井戸があった。昨年10月4日の「日生 後編」の記事で紹介した、大多府島の大井戸とよく似た井戸であった。
大多府島の大井戸は、上から見れば六角形だが、こちらは正方形である。形に違いはあるが、石材の材質や組み方がよく似ている。
この井戸も、ひょっとしたら岡山藩の土木技師津田永忠が施工したものなのかも知れない。
金山寺には、平安時代から室町時代にかけての古文書「金山寺文書」52通と「金山観音寺縁起」1通が保管されている。
この名刹の成り立ちを伝える貴重な文書で、国指定重要文化財となっている。
金山寺は、平成24年に国指定重要文化財だった本堂と本尊が全焼するという悲運に見舞われた。
しかし、歴史上何度も立ち上がって来た金山寺は、将来必ず再興されると思われる。