赤磐市山陽郷土資料館から南に行き、赤磐市南方という集落に行く。
ここには、前池という溜池がある。昭和30年に、前池の改修工事をした際に、池の底から縄文土器と共に、縄文時代晩期の食糧貯蔵穴が見つかった。
通常であれば腐ってしまうトチやドングリなどの木の実が、池の底で原型を留めて残っていた。
この発見のおかげで、当時の食糧事情の一端が判明した。
南方前池遺跡は、縄文時代晩期から奈良時代にかけての遺跡である。
発見された遺物は、赤磐市山陽郷土資料館で展示されている。
食料貯蔵穴は、穴の底に木の実を入れ、その上に葉や木の皮を重ね、粘土で蓋がしてあった。木の実を長持ちさせる当時の知恵から生まれたものだろう。
赤磐市山陽郷土資料館には、実際に南方前池遺跡から発掘されたドングリやトチ、縄文土器などが展示してある。
これらは縄文時代晩期の紀元前4世紀の遺物だが、そのころには、もう日本の一部では稲作が始っていた。
ここは、木の実の採集と狩猟漁労を主な食料の調達源としていた、縄文時代最終期の人々の姿を伝える貴重な遺跡だ。
南方前池遺跡から岡山市方面に進む。
そして岡山市北区牟佐にある国指定史跡・牟佐大塚古墳を訪れた。
牟佐大塚古墳は、6世紀末ころに築造されたと言われる古墳で、直径約30メートル、高さ約8.5メートルの円墳である。
牟佐大塚古墳は、総社市のこうもり塚古墳、倉敷市の箭田大塚古墳と並んで、岡山県三大巨石墳の一つとされている。
古墳の南側には、横穴式石室の羨道部が開口しており、中に入ることが出来る。
石室は、花崗岩を用いた両袖式のもので、羨道部は長さ約12メートル、玄室は長さ約6メートル、幅約2.8メートル、高さ約3.2メートルである。
石室内は、底に水が溜まっていて、ヒカリゴケが繁茂していた。足元に気を配りながら進む。
それにしても巨大な石室である。私は身長173センチメートルだが、屈まずとも羨道を歩くことが出来た。
玄室の天井は、思わず見上げる高さである。
写真では、なかなかこの玄室のスケール感は伝わり難い。
牟佐大塚古墳の石室は、日本の古墳の中で、十指に入る規模であるそうだ。
玄室中央には、長さ約2.88メートル、幅約1.6メートル、高さ約1.5メートルの刳抜式家形石棺が置かれている。貝殻凝灰岩製で、ここから約40キロメートル離れた井原市浪形山から運ばれた石材らしい。
石棺に開いた大きな穴は、どうやら盗掘時に開けられた穴らしい。
それにしても立派な石棺である。
当ブログの過去の記事で書いたことがあるが、石室と盛土で築かれた古墳は、立派な建造物である。
日本に残る最古の木造建造物は奈良県の法隆寺だが、現存するそれより古い日本の建造物となると、古墳になる。
この牟佐大塚古墳も、古代日本の名建造物の一つだろう。
それにしても印象的だったのは、石室内の涼しさである。外は酷暑だが、厚い土に覆われた石室内は、外より10度は気温が低いのではないかと感じた。
涼しく暗い玄室の中で、しばし外の世界の喧騒を忘れることができた。