津山市 泰安寺 妙法寺

 徳守神社から西に歩き、藺田川を越えて西寺町に入る。西寺町は、多数の寺院が集中する町である。

 今日は西寺町にある2寺院を紹介する。

 まず訪れたのは、浄土宗の寺院、泰安寺である。

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泰安寺表門

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 泰安寺は、森氏の所領だった美濃国金山にあった涅槃寺が前身である。森忠政の転封により、美濃国金山、信濃国川中島美作国津山と移転した。津山に移転したのは、慶長八年(1603年)のことである。
 森氏の次に津山藩主になった松平氏の時代に、藩主の菩提寺となり、元文四年(1739年)に泰安寺と名を改めた。

 表門と本堂が、岡山県指定重要文化財となっている。

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本堂

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 本堂は、寛永二十一年(1644年)の建築で、ご本尊は阿弥陀如来立像である。

 本堂隣の客殿、そのまた隣の庫裏も立派な建物だ。

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客殿

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庫裏

 境内にある不動堂は、建物自体はそう古くはなさそうだが、由緒あるお堂である。

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不動堂

 この不動堂には、その名の通り不動明王が祀ってあるが、この不動明王は、古くから津山城西御殿域内に祀られていて、歴代藩主が祈願仏として崇敬してきたものである。霊験はまことにあらたかだったという。

 津山藩松平氏七代目の松平斉孝は、特にこの不動明王への信仰が厚く、剃髪して越後入道と称し、このお堂に籠って護摩の修法を行った。

 天保九年2月3日に斉孝は西御殿にて卒した。斉孝の墓所を泰安寺に建てるにあたり、この護摩堂も泰安寺に移転されることになった。

 歴代藩主が手を合わせた不動明王に向かって手を合わせた。

 泰安寺には、歴代藩主の墓があるが、一般には公開されていない。境内の裏側から、敷地内にある御霊屋が見えた。

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御霊屋

 御霊屋に歴代藩主が祀られている。

 泰安寺の墓地には、津山洋学の立役者、宇田川玄随、玄真、榕菴、興斎の宇田川家四代と興斎の妻の墓がある。

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宇田川家の墓

 上の写真手前から、宇田川玄随(槐園)、玄真(榛斎)、榕菴、興斎、興斎の妻お梶の墓である。

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右から玄随(槐園)、玄真(榛斎)の墓

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右から榕菴、興斎、お梶の墓

 宇田川家の事績については、当ブログ今年7月30日の「津山洋学」の記事で紹介したので、ここでは贅せない。

 玄随、玄真、榕菴の墓は、元々浅草誓願寺にあったが、関東大震災の折に多磨霊園に移転した。宇田川家後裔の意向により、平成元年に津山の泰安寺に移転した。

 宇田川興斎は、文久三年(1863年)に江戸から津山に転居し、お梶を娶り、一子を儲けたが、子は生後七か月で病没し、お梶もその後すぐに亡くなった。興斎夫妻の墓も、宇田川三代の墓が泰安寺に移転したのに合わせて、この場所に移転した。

 宇田川四代は、玄随以外は養子である。門下生の中で最も有能な者を養子に迎え、家の学問の伝統を伝えたのだろう。

 この四人が津山藩どころか、日本の近代化に果たした功績の大きさを讃えたい。

 泰安寺から更に西に歩くと、日蓮宗の寺院、妙法寺がある。

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妙法寺山門

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妙法寺参道

 妙法寺は、嘉吉年間(1441~1444年)又は永禄年間(1558~1570年)に、現在津山城跡のある鶴山上に創建された。

 津山城建築開始の際に南新座に移転され、元和三年(1617年)に現在地に移転した。

 承応二年(1653年)に建てられた本堂は、岡山県指定重要文化財である。正面五間、側面六間で向拝一間を有し、内外陣間の欄間彫刻は見事で、初期大型法華伽藍の典型例とされる。

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本堂

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欄間彫刻

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 なるほど、立派な欄間彫刻だ。

 本堂前にある鐘楼は、木鼻の形状から江戸時代中期以前の建立と見られ、梵鐘銘にある元禄五年(1692年)ころの建築とされる。

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鐘楼

 袴腰を有する優美な妙法寺鐘楼は、津山市指定重要文化財である。

 その他に、妙法寺には慶長十八年(1613年)の銘がある鰐口がある。直径56センチメートル、重量25キログラムの大きなもので、「作州津山富川村」との銘がある。津山という地名の初見の例であるそうだ。これも津山市指定重要文化財である。

 境内に黒ずんだ祠があり、扁額に「三十番神」と書かれていた。

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三十番神の祠

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 黒っぽい木材の色と、正面の龍の彫刻などが、独特の存在感を放っている。

 三十番神がいかなる神か知らなかったが、調べてみると、最初天台宗で信仰された神仏習合の神で、旧暦の1カ月30日を1日毎に交替し、国土を守護する神様の総称であるらしい。例えば1日は熱田大明神で2日は諏訪大明神、3日は広田大明神というように、30の神様が1カ月間1日交替で守護するのだという。

 三十番神は、後に日蓮宗でも信仰されるようになり、日蓮宗では法華経の守護神となった。

 法華経は「諸経の王」と称されるお経で、劇的構成を持った戯曲の様な「文学作品」としても読める。鳩摩羅什の漢訳も見事で、これさえ尊崇すれば救われるという法華一乗の思想が生まれたのも頷ける。
 この三十番神の祠からは何か霊威のようなものを感じたが、それは法華経の世界を護持しようとする神々の意志だったのだろうか。