荘厳寺から車を南に走らせる。
西脇市黒田庄町岡にあるのが、兵主(ひょうす)神社である。JR加古川線の踏切のすぐ近くに、巨大な鳥居が建つ。
この大鳥居は、昭和になってから建立されたものである。
社殿によれば、兵主神社は、延暦三年(784年)に播磨掾(はりまのじょう)岡本修理太夫知恒が創建したものであるという。
祭神は、主神が大己貴(おおなむち)命、配神が、八千戈(やちほこ)命、葦原醜男(あしはらのしこお)、大物主命、清之湯山主三名狭漏彦八島篠命(すがのゆやまのぬしみなはさるひこやしましののみこと)である。最初の四神は、それぞれ大国主命の別名であるが、最後の清之湯山主三名狭漏彦八島篠命は須佐之男命の子、八島士奴美(やしまじぬみ)神の別名であるらしい。いずれにしろ出雲系の神様だ。
この神社で特色があるのは、黒田官兵衛が寄進した奉納金により、安土桃山時代に建てられた拝殿である。
秀吉が三木城の別所長治と戦った時、兵主神社の兵主が、「史記」に出てくる武神の名だったことから、秀吉は、黒田官兵衛に奉納金と燈明田七反を添えさせ、戦勝祈願を行った。神社は、この時の奉納金を使ってこの拝殿を建てたという。
拝殿には、天正十九年(1591年)建立の棟札がある。天正十九年は、既に秀吉の天下統一が成った後である。
この茅葺入母屋造りの拝殿は、長床式の平面で、支外桁で軒を支えている。西北隅には小さな祠がある。北側は幣殿に連なっている。
四方を開け放った、開放的な建物である。蒸し暑い日だったが、拝殿に上がると、風がよく吹き通り、涼しい気分がした。
床板が、均一な形ではなく、様々な形をした四角形の板の組合せだったが、クロスワードパズルのように緊密に組み合わされていた。
安土桃山時代の長床式拝殿を伝えるものとして、貴重な建物だそうだ。
どことなく南洋を思わせる建物で、明るい気分になる。
かつては、神社敷地内に、神仏習合の流れを受けて、明鏡山神通寺が建てられていたそうだが、明治の廃仏毀釈で寺は廃止された。
神社の前に鐘楼が残っていて、神仏習合時代の名残となっている。
兵主神社拝殿の茅葺屋根は、何度も何度も修復されてきたものだろう。床板や柱や桁は、さすがに古びがついていた。これは安土桃山時代から使われた部材だろう。
古くからの木造の建物を、修復しながら大切に残していく日本人の文化財に対する姿勢は、いいものであると思う。