高田屋嘉兵衛の墓に詣でた後、スイフトスポーツに乗って南下し、洲本市五色町鳥飼中にある鳥飼八幡宮に参拝した。
この辺りは、かつては鳥飼荘という名の石清水八幡宮の荘園であった。そのため、荘鎮守として八幡大神が勧請されたのだろう。
創建年代は不明だが、社伝では、石清水八幡宮が創建された貞観元年(859年)の数年後に建てられたという。
鳥飼八幡宮は、淡州鳥飼別宮とも呼ばれている。
鳥居を潜って参道を歩くと、左手に洲本市指定文化財(天然記念物)のホルトノキの巨木がある。
ホルトノキは、千葉県より西に生える常緑高木であるが、兵庫県では淡路島のみに自生している。
ホルトノキは大きくなると、幹回り1.8メートルほどになると言われているが、このホルトノキは、樹高17.1メートル、幹回り4.1メートルで、ホルトノキとしては類を見ない巨木であるらしい。樹齢は推定約600年だそうだ。
私は木登りをしたことがないが、この木なら私でも登れそうだ。
特に地表に浮き出た根が、石を巻き込んで四方に伸び、この木の強靭な生命力を現している。
この木の肌を触ると、ごつごつしていて硬い。
印象的な巨木に出会うと、いつも地球上に生息する同じ生物の大先輩への畏敬の念を覚える。この木に出会えた幸福を感謝した。
ホルトノキの巨木を過ぎると、天明六年(1786年)の銘のある鳥居がある。
鳥居を潜ると神門があり、その先に印象的なイブキがある。
神門を潜ると、拝殿があり、その前には広々とした空間がある。
鳥飼八幡宮の本殿は、慶長八年(1603年)の建築で、淡路で最古の木造建造物だが、拝殿の方の建造年代は分からない。
拝殿は、桁行七間、梁間三間の吹き抜けの建物である。私は、風が吹き抜ける開放的な拝殿が好きだ。
木材の風味を見ると、拝殿の方はそう古い建物ではないだろうと感じた。
拝殿の背後に建つ本殿は、慶長八年(1603年)の建築で、兵庫県指定文化財である。三間社流造で、現在は銅板葺の屋根だが、元々は杮葺きだったらしい。
蟇股、手挟み、笈形の形状が安土桃山時代の様式を残しているということだったが、本殿正面が板壁で覆われているので確認することが出来なかった。
鳥飼八幡宮は、国指定重要文化財の沃懸地(いかけじ)螺鈿金銅装神輿を所蔵している。本殿横の宝物庫に保管されている。
この神輿は、久安六年(1150年)に、近衛天皇の母美福門院得子が石清水八幡宮に奉納した15基の神輿の内の1基で、安貞二年(1228年)に石清水八幡宮から鳥飼別宮に贈与されたと伝えられている。
もしかしたら、この安貞二年というのが、鳥飼八幡宮の創建年代になるのかも知れない。
鳥飼八幡宮には、毎年10月第三日曜日に行われる大綱引きという祭事が伝わっている。
浜と陸に分かれた氏子たちが、直径80センチメートル、長さ30メートルの大綱を引き合い、豊漁と豊作を願う祭事で、海人が伝えた南方系習俗であると言われている。
鳥飼八幡宮から東に走り、今度は洲本市五色町上堺の八衢(やちまた)神社に赴いた。
この神社には、永和五年(1379年)の銘のある梵鐘が伝わっている。
銘文によれば、この梵鐘は、永和五年(1379年)に、施主小野兼武により、河内国八上郡の金田宮三所大明神に奉納されたものであるという。
早くも永徳三年(1383年)には京都の仏心禅寺に移されたが、その後の経過は分からない。
何故か天保八年(1837年)に上堺村の農夫太郎左衛門の家から掘り出された。地元の人は、村の鎮守の八衢神社にこの梵鐘を奉納した。
古い梵鐘には数奇な運命を辿ったものが多い。この梵鐘もその一つだ。ここでも私は鐘を撞いてみた。
鳥飼八幡宮にも、八衢神社にも、中世から伝わる貴重な文化財があった。
鳥飼八幡宮は、石清水八幡宮の別宮であるが、上方の文化が、地方にある上方の寺社の荘園に伝えられていることは、よくあることである。
私たちの身近にある寺社にも、古の王朝文化から流れて来た文化財が、ひっそりと伝えられているかも知れない。