福良の氏神と言って良いのは、福良港の北側に鎮座する福良八幡神社である。
少し小高い丘の上に神社はある。
福良八幡神社は、貞観元年(859年)に奈良大安寺の行教上人が、清和天皇の勅願により、宇佐八幡宮の祭神を石清水八幡宮に勧請するに際し、福良に立ち寄り、ここにも分霊を奉じたのが始まりと伝えられている。
もしこれが本当なら、石清水八幡宮よりも先に宇佐八幡宮の分霊を祀った由緒あるお社ということになる。
南の一の鳥居を潜り、石段を登ると随神門がある。
貞応二年(1223年)には、弦島城主福良義邦が社殿を造営し、同時に神宮寺(神社を管理する寺院)を建立して、八幡宮別当とした。
室町時代末期から社殿の大改築工事が行われ、天正三年(1575年)に竣工したのが、現在の本殿である。
淡路最古の建築物と言われている。
拝殿は、元和六年(1620年)建立で、本殿に次いで古い建物である。
福良八幡神社の主神は第15代応神天皇である。相殿に第14代仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰を祀っている。
本殿は、淡路で唯一の桃山様式の建物である。
桃山様式と言えば、朱色と白に彩色された艶やかな社殿を想起するが、武神を祀る八幡神社はさすがに簡素である。
だがこんな簡素な姿になったのは近年のことで、昔は桃山建築らしく鮮やかに彩色されていたそうだ。
本殿は、銅板葺の三間社流造だが、正面に切妻の屋根の長い向拝が付いている。今まで見たことがない建築様式である。
立派な社殿である。淡路を代表する神社の一つだろう。
本殿の北西には、大神(おおみわ)神社、別称素麺神社がある。
実は福良では、江戸時代末期から素麺づくりが行われている。
福良の人々がお伊勢参りの帰りに大和の三輪に立ち寄り、三輪素麺の作り方を習得し、この地に伝えたという。
大正時代に三輪の大神神社の祭神大物主大神を勧請し、この地に社殿を建てたという。
また本殿の鬼門に当たる北東には、応神天皇に仕えた武内宿禰を祀る高良(こうら)神社が建っている。
武内宿禰は、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と五代の天皇に仕えた忠臣である。
境内の南には、文久三年(1863年)の天誅組の変から、昭和20年に終結した大東亜戦争まで、朝廷や国家のために戦って亡くなった福良出身の英霊三百五十四柱を祀る護国神社がある。
国のために戦って亡くなった方々には、頭を下げるより他ない。
ところで八幡神は、欽明天皇三十二年(571年)に豊後国宇佐に示現したと言われている。その正体ははっきりと分かっていない。
今では八幡神は応神天皇とされているが、「古事記」「日本書紀」「続日本紀」にはそのような記述はない。
応神天皇を祀っているとのことから、宇佐八幡宮の分霊を勧請した京都の石清水八幡宮は、伊勢神宮に次ぐ皇室第二の祖廟と呼ばれるようになった。
また八幡神は、奈良の東大寺と大仏の守護神として、宇佐から手向山八幡宮に勧請された。以後仏教を守護するとの宇佐八幡宮の託宣があったためである。
八幡神は、弓削道鏡の追放や大仏建立に際して託宣を下し、国の針路を示した。
私は、八幡神が、応神天皇に習合される前の謎の神のままの方がいいと思う。
謎の神が我が国を見守っていると思った方が、心強い気がするのである。