本堂の西側にある常行堂は、僧侶が阿弥陀仏の周囲を歩きながら念仏をひたすら唱える常行三昧という修行をするための建物である。国指定重要文化財である。
常行堂の建築は、国宝太子堂と同時期の12世紀前半である。元々は、檜皮葺の屋根だったが、永禄九年(1566年)に瓦葺に葺き替えられた。国宝に指定されない理由は、おそらくそれだろう。
蔀戸のある簡素な建物である。いかにも平安朝の建造物らしい。
蔀戸は、上部が上側に開くようになっている。建物前面は蔀戸が覆っているが、背面は白い漆喰壁が覆っている。
さて、いよいよ国宝本堂を拝観する。
本堂は、応永四年(1397年)の建築である。13世紀中ごろに、唐様と天竺様という2つの建築様式が日本に伝わり、14世紀に従来の和様と折衷した様式が出来上がった。
この本堂は、その折衷様式の中で最も優れたものであるらしい。
言うなれば、日本、中国、インドの建築様式の混淆した姿か。
本堂の中は、内陣と外陣に分かれる。内陣には、華麗に装飾された宮殿(くうでん)があり、中には秘仏である薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、持国天、多聞天が祀られている。60年に1度しか開帳されない。
当然宮殿は撮影することができない。本堂内に、宮殿が開帳された時の写真があったので、それを写した。
これらの仏像は、全て平安時代の作である。
宮殿の前には、お前立ちの日光菩薩像、月光菩薩像、十二神将像がある。又、宮殿の左右にある壁には、白い鶴が描かれている。鶴林寺という寺号と関係があると思うが、由来は分からない。
さて、本堂の東側にあるのが、国宝太子堂である。天永三年(1112年)の建築で、兵庫県内最古の建築物である。
檜皮葺の屋根の上に宝珠が載る簡素な佇まいである。
聖徳太子創建の聖霊院の後身として太子堂と呼ばれている。太子堂は、修行僧が法華経をひたすら唱える法華三昧という行を行うための堂であり、別名法華堂と呼ばれている。常行堂と対になるように建てられた。
太子堂内部には、内陣があり、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、四天王が祀られている。恐らく、鶴林寺の前身の四天王寺聖霊院に祀られていた仏像も、太子堂のものと同じ仏様だったろう。
太子堂に祀られている仏像と釈迦如来像の上にある天蓋の実物は、全て宝物館で展示されている。今太子堂の中にある仏像は、平成になってから設置されたレプリカである。
太子堂内部の柱や壁は、煤で真っ黒である。昭和51年の赤外線による調査で、釈迦如来像の背後の壁の表側には九品来迎図が、裏側には涅槃図が、天井小壁には飛天図が、その他長押上の小壁、四天柱にも仏画が描かれていることが判明した。太子堂建築当時の仏画が煤の下に残っているのである。
この仏画は、現在の画家によって再現され、宝物館で展示されている。
太子堂の北側には、応永十四年(1407年)建築の鐘楼がある。
鐘楼は、袴腰造りの優美な建物である。
内部に吊るされている高麗時代の梵鐘も国指定重要文化財である。
ところで、東播磨には、既に紹介した一乗寺、鶴林寺の他に、小野市の浄土寺、加東市の朝光寺と計4つの国宝寺院がある。それだけ仏教が古くから根付いていたのだと思われる。
6世紀には、仏教はほとんどの日本人に受け入れられず、弾圧されていた。恵便法師が東播磨に逃れて、この地に仏教を広めたため、飛鳥白鳳時代には、東播磨は日本有数の仏教の先進地帯になっていたのではないか。そのため、孝徳天皇も、仏教の下地のある東播磨に法道仙人を派遣し、寺院を建立させたのだと思う。
飛鳥白鳳時代の日本のことを考えると、大和、河内、摂津、和泉が最先進地域で、後に平安京が出来た山城国は、まだ巨椋池と湿地が広がる未開の地域だったろう。
東播磨は、寺院の多さだけでなく、加古川流域の古墳の規模と数から考えても、当時日本有数の先進地域だったのではないか。
東播磨は、高砂周辺に残る神功皇后伝説のとおり、当時の交通の主力であった海運で畿内や北部九州に接続していたため、文化的にも進んでいたことだろう。
今日本でもっとも繁栄している東京が開けたの江戸開府以降であるし、京が開けたのは平安京以降である。
今繁栄している都市が古代には未開地で、交通の様相も現代と全く異なることを想像すると、古代の姿が脳裏に浮かび上がってくる。