坂を上がって、境内の最奥にある本堂に至る。
私が本堂前に架かる橋を渡ろうとすると、目の前をシマヘビが横切った。大きなシマヘビである。
実を言うと、私が寺社を巡ると、蛇に遭遇することが多い。いつもこれを神仏の使いだと思って有難がることにしている。
神仏に歓迎されていると感じた。
本堂には、本尊の十一面観音菩薩像を祀ってある。
屋根は金属屋根に葺きなおされている。
本堂は、明治5年の再建で、本尊の十一面観音菩薩像は平安時代後期の作とされている。行基が自ら刻んだ仏像ではなさそうだ。
向拝蟇股の彫刻が裏表で異なっている。
本堂内部は、絢爛たる密教空間である。本尊を祀る宮殿の背後の壁にも金箔が貼られている。
本堂の両側面には、地蔵菩薩像が祀られている。
最近仏像を見て思うのだが、仏像とそれを安置する寺院は、あくまで人間が仏の世界を人為的に目に見えるようにしただけで、私たちが普段目にする世界そのものが仏の世界であることを象徴的に表しているだけである。
普段足元に踏みしめている土や、呼吸する空気が、既に仏の世界なのである。
自身の心の持ちよう一つで、この世は仏国土になり、地獄になるのである。
高野山や比叡山、京や奈良などの有名寺院の伽藍や仏像を拝まずとも、心の持ちよう一つで、身近にある苔の生えた庭の土にも、アスファルトの道路にも仏国土は出現するのである。
膨大な仏教経典や、立派な仏殿仏像も、結局そのことを教え諭すために存在しているのではないか。
境内には新緑が美しい楓があった。
新緑の楓を見て、夏も間もなく来るなと感じた。