鶉野飛行場 北条鉄道網引駅

 兵庫県加西市鶉野町にある鶉野飛行場跡は、かつての姫路海軍航空隊の基地の跡である。近くに川西航空機株式会社姫路製作所が併設されていた。

f:id:sogensyooku:20191028204041j:plain

鶉野飛行場跡

 かつてはここに、全長1200メートル、幅60メートルの滑走路があった。今は滑走路跡に砂利が敷かれているが、遠くまで続く平らな砂利の空間を見ると、ここに航空機の滑走路があったことを偲ぶことが出来る。

 姫路海軍航空隊は、海軍航空機のパイロットを養成するために、昭和18年10月1日に開設され、この鶉野の地に飛行場が建設された。

 飛行場は昭和19年5月に完成した。

f:id:sogensyooku:20191028204437j:plain

鶉野飛行場見取図

 ここに全国からパイロット候補の若者が集まり、訓練に明け暮れた。訓練機としては、97式艦上攻撃機が使われた。

f:id:sogensyooku:20191028205714j:plain

97式艦上攻撃機

 97式艦上攻撃機は、真珠湾攻撃などの大東亜戦争緒戦で、相当な戦果を上げた攻撃機(魚雷で敵艦を攻撃する飛行機)である。

 ここで私は大東亜戦争という呼称を使った。当ブログを続けていくうちに、「先の戦争」を取り上げることも出てくるだろう。そうすると、「あの戦争」の呼称をどうするかという問題が出てくる。私は大東亜戦争という呼称を使う。

   昭和16年12月12日、当時の東條内閣は、「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」と閣議決定した。

 大東亜戦争という呼称は、日本政府が「あの戦争」の呼称として正式決定したものである。

 大東亜戦争という呼称は、大東亜共栄圏を思い出させることから、戦後の日本では、当初はGHQが使用を禁止し、昭和27年の日本独立後は日本人自身が使用を控えてきた。 

 大東亜戦争の「大東亜」は、単に地理的な範囲を指す呼称である。アメリカは、「あの戦争」を「太平洋戦争」と呼ぶが、アメリカが戦闘した範囲は概ね太平洋及びその沿岸である。

 日本が戦った範囲は、太平洋とその沿岸のみならず、中国大陸、インドシナ半島インドネシア、インド洋にまで及ぶ。

 当時の日本政府は、「支那事變ヲモ含メ」とあるように、中国大陸での戦いも範囲に含める呼称として、大東亜戦争を採用した。

 私がこの呼称を使うのは、単に日本政府が正式名称として閣議決定したからで、大東亜共栄圏構想を賞賛しているからではない。

 自国が戦った戦争の呼び名ぐらい、自国が決めた呼び名で呼びたいというだけである。

 鶉野飛行場で訓練を受けた姫路海軍航空隊佐藤清大尉以下63名は、21機の艦上攻撃機を使用し、神風特別攻撃隊白鷺隊を編成した。白鷺隊は、昭和20年4月6日から5回に渡り鹿児島県串良基地から沖縄に向けて出撃し、沖縄近海の米国艦艇に対して飛行機もろとも体当たり攻撃を行い、壮烈な戦死を遂げた。翌日の4月7日には、沖縄に向かった戦艦大和が撃沈されている。こうして若い命は散っていった。

 鶉野飛行場の丁度真ん中辺りに、姫路海軍航空隊の碑が建っている。白鷺隊のことについても彫られている。

f:id:sogensyooku:20191028212917j:plain

平和祈念の碑

f:id:sogensyooku:20191028213025j:plain

f:id:sogensyooku:20191028213057j:plain

 言葉は出ない。ただただ壮絶な戦死を遂げた日本兵に対しても、神風特別攻撃隊の攻撃で戦死した米兵にも、頭を下げて冥福を祈るのみである。

 鶉野飛行場の片隅には、鶉野飛行場資料館がある。

f:id:sogensyooku:20191028214253j:plain

鶉野飛行場資料館

 当日は閉まっていて、見学することは出来なかった。

 鶉野飛行場は、川西航空機姫路製作所が、製造した戦闘機を試験する際にも使用された。

 川西航空機は、ここで紫電紫電改といった戦闘機を製作した。紫電改は、戦争末期に登場した、日本が開発したレシプロ戦闘機の中では最強の機体である。

 軽量だったが装甲が薄い零式艦上戦闘機は、戦争後半には火力のあるアメリカ機に太刀打ち出来なかった。零戦の800馬力のエンジンに比べて、2000馬力のエンジンを積む紫電改は、防弾装備を厚くして機体が重くなっても、馬力がある分十分に戦えた。

 紫電改は、零戦が歯が立たなかったP51ムスタンググラマンF6Fヘルキャットといったアメリカ機とも互角に戦えた。

 そんな紫電改が鶉野で製作されていたのだが、今鶉野飛行場では紫電改の原寸大の模型を展示していて、毎週第1、第3日曜日に公開している。

f:id:sogensyooku:20191028220139j:plain

紫電改模型の格納庫

f:id:sogensyooku:20191028220327j:plain

紫電改の原寸大模型

f:id:sogensyooku:20191028220436j:plain

 私が訪れた日は、公開日ではなかったので、格納庫のアクリル板を通して中を覗いただけだが、紫電改が意外と大きかったので驚いた。

 模型ではあるが、コクピットも本物そっくりに作っているようだ。

f:id:sogensyooku:20191028220715j:plain

 鶉野の製作所では、46機の紫電改が作られ、終戦時には13機が残存していた。戦後アメリカに運ばれた紫電改に乗ったアメリカのパイロットは、その性能に驚いたという。

 鶉野飛行場の南側には、姫路海軍航空隊の防空壕と地下指揮所が残っている。

f:id:sogensyooku:20191028221045j:plain

防空壕

f:id:sogensyooku:20191028221138j:plain

地下指揮所入り口

 飛行場のあった鶉野は、米軍に空爆され、周辺の民家も破壊されたらしい。

 防空壕の南側の、かつて姫路海軍航空隊の兵舎があった辺りは、今は神戸大学農学部附属農場となっていて、牛が放牧されている。

f:id:sogensyooku:20191028221843j:plain

 鶉野飛行場からほど近い北条鉄道網引駅には、紫電改にまつわる悲惨な事故の跡が残っている。

 北条鉄道は、兵庫県小野市の粟生駅から、加西市北条町駅を結ぶローカル線で、今はてんぷら油で走るディーゼル車が話題を呼んでいる。

 昭和20年3月31日、この北条鉄道網引駅の近くで悲惨な事故は起きた。

f:id:sogensyooku:20191028222457j:plain

網引駅の事故を伝える看板

 昭和20年3月31日、訓練飛行中の紫電改が、鶉野飛行場に着陸するため高度を下げていたところ、エンジンが突然停止して高度を急激に落とした。紫電改は、北条鉄道の線路に尾輪をひっかけ、線路を歪めてそのまま墜落した。

 そこを丁度通りかかった満員乗車の北条鉄道が転覆し、12名の乗客と紫電改搭乗員1名が命を落とした。

f:id:sogensyooku:20191028222946j:plain

列車転覆事故の説明板

 加西市が経験した交通事故としては、戦前戦後を通じて最悪であるらしい。

f:id:sogensyooku:20191028223322j:plain

列車転覆事故のあった辺り

 転覆事故のあった辺りは、当時も今も水田のままである。かつて悲惨な事故があったことを示すものは、網引駅の看板のみである。

 戦争とは人間が行う重い営為であるが、巨大な機械の動きに似ている。機械が一度動き出すと、個人の力ではなかなか止めることが出来ない。巨大な機械の動きの下敷きになって死ぬ人もたくさん出てくる。それでも戦争という機械が動き出すには、それなりの歴史の必然がある。歴史は人間が織り成すものだから、結局は戦争という機械は人間が動かしているのである。

 抽象的な物言いになってしまったが、具体的に言うと、人間が共同体の利益を守る思いを持っている以上は、戦争は必ず起こる。人類全員が自分だけが生き残ることしか考えなくなったら、戦争は無くなるだろう。

 そんなことはありえないので、戦争はなかなかなくならないのだが、戦争というこの人間の宿痾を直視し続け、戦争の中で生きて死んでいった人々がいたという事実を尊重することが、歴史を見る目には必要だと思う。