桜ヶ丘公園 お局塚

 沖ノ島の北側に鎧崎という岬がある。その岬の付け根部分に、うずしお温泉うめ丸という旅館があるが、うめ丸の南側に桜ヶ丘公園という公園がある。

 ここには、昭和20年8月2日に鳴門海峡を船にて横断中、米軍機の攻撃を受けて亡くなった宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練習生82名の墓地と、82名の霊を慰めるために建立された慈母観音像と彰忠碑がある。

 地名で言うと、兵庫県南あわじ市阿那賀になる。

鎧崎

 桜ヶ丘公園には、うずしお温泉うめ丸から行く道と、鎧崎南側の海沿いの駐車場から階段を上がっていく道の二通りがある。

うめ丸から行く道

南側の駐車場から行く道

 終戦間近の昭和20年8月2日、杉本少佐指揮の下、鳴門要塞増強工事の任務を帯びていた宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練習生百余名は、機帆船に乗って鳴門の撫養港を出港し、淡路の阿那賀港に向かって鳴門海峡を横断していた。

 だが阿那賀港に近い鎧崎沖で米軍機の攻撃を受けて、一瞬にして82名の練習生が戦死した。

敵機の攻撃を受ける機帆船の絵

 戦死した予科練習生の年齢層は、何と15歳から19歳である。将来ある多数の若者の命が一瞬で奪われてしまった。

 この若者たちを哀悼し、慰霊するため、昭和40年に鳴門海峡を見下ろす鎧崎の高台に、82名の墓碑と彰忠碑が建立された。

 鎧崎桜ヶ丘英霊墓地である。

鎧崎桜ヶ丘英霊墓地

 昭和42年には、墓地の中央に慈母観音像が建てられ、高松宮同妃両殿下の来臨を仰ぎ、開眼法要を施行した。

 さて、墓地には、戦死した82柱の英霊の墓碑が整然と並び、その奥に慈母観音像と彰忠碑がある。

宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練習生の墓碑

 墓碑には、戦死した予科練習生の名と享年が刻まれている。

 手前の方が若い予科練習生の墓碑で、奥に行くほど年齢が上がっている。

享年十五歳の予科練習生の墓

 一番手前には、享年15歳の予科練習生の墓が並んでいる。奥に行くほど年齢が上がるが、最高齢でも19歳である。

 胸が痛くなるほどの若さである。

 私は、戦死者に対するとき、「時代の犠牲者」という風には思わないようにしている。

慈母観音像と墓石群

 彼らは、その時代の大義と言われたもののために戦って死んだのである。

 後世の者が、その大義に難癖をつけて、時代の犠牲者だと言ったところで、戦死者は報われないだろう。彼らは彼らなりに信じたその時代の義のために死んだからである。

 彼らを「時代の犠牲者」というのは、死者への冒涜であり、現代に生きる者の自己満足であろう。

 戦死者には、「よく戦った。頑張った。我々はいつまでも忘れません。」という言葉をかけるべきだろう。

慈母観音像

彰忠碑

 桜ヶ丘公園から、彼ら予科練習生が海の藻屑と消えた鳴門海峡の方向を眺めると、正面に大鳴門橋が見える。

大鳴門橋

 予科練習生も、自分たちの死後に、このような大橋が出来るとは夢にも思わなかっただろう。

 鎧崎には古墳群があるというので、岬の先まで歩いてみたが、古墳と分かるものにはお目にかかれなかった。

鎧崎の先端付近

 ただ潮の音が響くばかりである。

 南あわじ市阿那賀から、兵庫県道477号線を北上し、伊加利小前交差点を北上すると、左手に「お局塚」と書かれた案内看板が見えてくる。そこを曲がって山道に入っていく。

お局塚の案内看板

 お局塚とは、平清盛の甥・平通盛の夫人小宰相の局の墓と言われる塚である。

 小宰相の局は、宮中第一の美人と呼ばれた女性である。

 小宰相の局は、寿永三年(1184年)に屋島に落ち延びる途中の船内で、一の谷の合戦で夫・通盛が戦死したことを知り、嘆き悲しんで船から鳴門に近い瀬戸内海に身投げしたという。19歳の儚い死であった。

お局塚のある多摩山

 一旦船上に引き上げられた小宰相の局の遺体は、従者により水葬に付されたという。

 お局塚は、多摩山上にあるが、そこまで普通乗用車1台がようやく通れる道が続いている。

 車で登っていくと、突き当りにお局塚がある。

お局塚

 お局塚のある多摩山は、古来から平家の落人が隠れ住んだ地とされてきた。

 この地に七つの塚があることは昔から知られていたが、地元の人は、小宰相の局と自決した六人の従者の墓と言い伝えてきた。

 中心となる塚には、船形の石積みがなされている。

船形の石積み

 明治初期に、それぞれの塚の上に一石五輪塔が建てられた。

一石五輪塔

 昭和37年、有志により、船形の石積みの上に、船上の帆をイメージして、平通盛の霊を招き寄せるための帆型の供養塔が建てられた。

供養塔

 小宰相の局は、通盛と再会することが出来ただろうか。

 お局塚は、山頂の近くにある。山頂の向こうには、西日が沈む瀬戸内海がある。

 山の向こうから潮騒が僅かながら聞こえてくる。私には、それが山中で囁きあう平家の人たちの声のように聞こえた。