姫路城 その4

 これから姫路城の大天守内部を見ていくが、図がないと分かりづらいと思う。

 後日、兵庫県立歴史博物館で写した姫路城断面図と断面模型の写真を載せる。

f:id:sogensyooku:20190817165938j:plain

姫路城断面図

f:id:sogensyooku:20190817171117j:plain

姫路城断面模型

 これを見ても分かるように、姫路城は外から見ると5階建てに見えるが、実は石垣内に地階が1階あり、石垣より上は6階まである。

 外から見て4階に見える部分に、実は4階と5階が入っている。

 姫路城大天守の美しさの秘訣は、千鳥破風と唐破風がバランスよく配置されているところにあるだろう。

f:id:sogensyooku:20190817170421j:plain

姫路城大天守

 この配置の妙は、音楽的と言っていいと思う。

 さて、大天守地階に入ると、中は何の装飾もない木肌むきだしの空間である。

f:id:sogensyooku:20190817194827j:plain

西大柱

 中央に見える巨大な柱は、西大柱である。大天守の断面模型を見て分かるように、姫路城大天守には、東大柱と西大柱という2本の巨大な柱が、地階床から6階床までを貫通しており、建物の中心を支えている。

 その内、東大柱は、姫路城建築当時の柱を補強しながら使っているが、西大柱は、昭和の大修理で新材に取り換えられた。

 昭和の大修理(昭和31~39年)は、姫路城天守を一度解体して組み直すという大工事であった。

 この際に、西大柱が腐朽していることが分かり、新材に取り換えられることになった。しかし、全長24.7メートルの木材を調達することは至難の業で、ようやく岐阜県恵那郡加子母村国有林から、1本の長大な檜を調達することになった。

 だがこの檜の搬出作業中に折損事故が起きてしまう。そのため、西大柱の3階から上は、兵庫県神崎郡市川町の笠形神社から伐り出した檜の柱を継ぎ足している。

 この昭和の大修理のことは、かつてNHKの「プロジェクトX」で放送された。

 大天守地階には、使用意図は分かっていないが、流しなどがある。籠城時に食糧を作ることを想定していたのではないか。

f:id:sogensyooku:20190817173613j:plain

地階の流し

 1階に上がる。大天守1階には、全部で4つの出入り口がある。いずれも厳重な扉で閉じられている。

f:id:sogensyooku:20190817174512j:plain

ニの渡櫓との通用口

 ニの渡櫓との間の通用口は、鉄製の二重扉で、閂を内側からかけたら、入れなくなる。

 また、1階には、武具掛けがある。当時は槍を掛けていたのだろう。

f:id:sogensyooku:20190817174752j:plain

武具掛け

 2階に上がる。大天守の縦の柱と横の柱が交差する部分に黒色の釘隠しが見える。六葉釘隠しと呼ばれるものである。

f:id:sogensyooku:20190817175456j:plain

2階の六葉釘隠し

 又、武具庫と呼ばれる部屋がある。

f:id:sogensyooku:20190817175751j:plain

武具庫

 こうして見ると、大天守には居住スペースは見当たらない。大天守は、あくまで籠城戦で兵士たちが立て籠もって戦うために造られたもののようだ。

 2階の東西には、入母屋破風があるが、破風の内側には、「破風の間」と呼ばれる空間がある。

f:id:sogensyooku:20190817194221j:plain

破風の間

 破風下の格子窓から風が入るので、外国人観光客達が涼んでいた。

 3階に上がると、ようやく剥き出しの東大柱を目にすることができた。

f:id:sogensyooku:20190817195106j:plain

東大柱

 西大柱が角柱であるのに対し、東大柱は円柱である。何かいわれがあるのだろうか。

 また3階の四隅には、武者隠しと呼ばれる、伏兵を配置する狭い部屋がある。

f:id:sogensyooku:20190817195334j:plain

武者隠し

 4階に上がる。大天守の東西には、大入母屋屋根と呼ばれる大きな入母屋(千鳥)破風があるが、そのため4階の窓の位置が高くなっている。窓を使用できるように、石打棚を設けている。戦闘時は、この窓から眼下の敵を攻撃する予定だった。

f:id:sogensyooku:20190817195609j:plain

石打棚

 5階に上がると、東西の大柱の先端を見ることが出来る。両柱とも先端部を鉄板で補強している。昭和の大修理の際の補強である。

f:id:sogensyooku:20190817200218j:plain

東大柱と西大柱の先端

 東大柱は、昭和の大修理の際に、中心線から東南に37cm傾いていることが分かったそうである。それまでは、柱を補強して、何とか使い続けていた。

 6階は、大天守の最上階である。ここには、姫山の地主神である、刑部(長壁)大神(おさかべおおかみ)を祀っている。

f:id:sogensyooku:20190817200128j:plain

刑部(長壁)神社

 姫山には、姫路城築城前から、元々刑部神社が祀られていた。大天守を建てた池田輝政は、姫路城「との三門」に刑部神社を建てて手厚く祀った。寛延元年(1748年)、城主松平明矩の時に、社名を長壁神社に改めた。長壁神社は、歴代藩主の崇敬が厚かったが、明治12年播磨国総社に移された。その後勧請され、天守最上階に祀られるようになった。長壁神社は、火災や災害に霊験あらたかな神とされる。

 姫路城は、昭和20年7月3日の姫路空襲で、姫路市街の40%が焼失した時も、奇跡的に生き残った。

 昭和20年、日本中が米軍の空襲に曝された際、白く目立つ姫路城を守るため、城に偽装網をかけて黒くみせかけた。

 7月3日の姫路空襲では、米軍のB29は、姫路城にほとんど焼夷弾を落とさなかった。B29の搭乗員にインタビューした神戸新聞の記事によると、当時のB29に搭載されたレーダーは、機下にあるものが地表か水面かの判別しかできなかったという。レーダーが姫路城の濠を水面と捉えたので、搭乗員は姫路城周辺を沼などの水面と判断し、焼夷弾を落とさなかったという。

 当時姫路城は世界的には無名だったので、米軍が敢えて城を避けて爆撃したとは考えにくい。実際に国宝名古屋城天守は名古屋空襲で焼失してしまった。

 それでも、姫路城大天守6階に焼夷弾が1発だけ直撃した記録は残っている。不発弾だったため、すぐさま処理班が素手でバケツリレーして大天守から運び出し、城外で爆破したそうだ。これが不発弾でなければ、天守は燃え落ちていただろう。

 夜を徹した空襲から明けて、外に出た姫路市民は、一面焼け野原となった姫路市街の中心に、奇跡のようにお城だけが残っているのを見て、感激したという。

f:id:sogensyooku:20190817205016j:plain

天守最上階から南を望む。

 これが長壁大神の霊験であるかは分からないが、姫路城が幸運な城であることは間違いないだろう。 

 姫路城大天守最上階から四囲を見渡すと、発展した現在の姫路市街が見える。ここに祀られる長壁神社は、姫路城築城前から現在まで、姫山周辺の移り変わりを見続けてきたことだろう。

 私には、長壁大神が、今住処となっている大天守が気に入ったから、しばらくここに居らせてくれと言っているように感じる。この神様の我が儘につきあって、お城を美しく維持し続けるのも悪くないと思う。