多可町八千代区、加美区の寺院

 引き続き、兵庫県多可郡多可町八千代区の寺院を訪れる。

 楊柳寺の次に訪れたのは、八千代区中野間にある天台宗の寺院、極楽寺である。

 極楽寺は、白雉二年(651年)に、法道仙人が開基したと伝えられる。

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極楽寺仁王門

 極楽寺は、元々は、ここから1キロメートル北にあった道脇寺の飛地境内だった。道脇寺は、天正三年(1575年)に野間城主有田宗晴が秀吉に攻められた際の兵火で全焼し、道脇寺西ノ坊だけが生き残った。この西ノ坊が極楽寺の前身である。

 西ノ坊が所蔵する極楽浄土変相曼荼羅(當麻曼荼羅図)により、この地も弥陀の極楽であるとされ、極楽寺という名称となった。

 仁王門は、享保十三年(1728年)に建立されたもので、国登録有形文化財である。

 仁王門をすぎてすぐの場所にかかる石橋は、寛政四年(1792年)の銘があり、念仏橋と呼ばれている。

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念仏橋

 極楽寺は何度も火災に遭ってきたようで、境内に古い建物はほとんど残っていない。古そうなのは大日堂だが、それでも明治の建築のようだ。

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大日堂

 本堂は、平成27年に再建された。今にも新材の匂いが漂ってきそうな新しい建物である。

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本堂

 極楽寺には、国指定重要文化財の絹本着色六道絵の他、當麻曼荼羅、釈迦涅槃図、両界曼荼羅、千手観音二十八部衆像などの寺宝があるが、由来は分かっていない。野間城主の有田氏が寄進したとも伝えられる。ご本尊は千手観世音菩薩である。

 庫裏と塔頭妙寿院の前に石庭があり、そこに法道仙人と、恵便(えべん)法師、慧聰(えそう)法師の石碑が建っている。

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塔頭妙寿院と庫裏

 この塔頭は、天保年間の再建で、建築から約170年経っている。

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法道仙人の碑

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恵便法師、慧聰法師の碑

 恵便法師は、敏達天皇十三年(584年)に高句麗から来日した僧侶である。日本初の渡来僧であるという。

 当時の日本は、廃仏派の物部氏の勢いが強く、迫害された恵便は、無理に還俗させられて播磨に流された。そして現在の八千代区大屋笠形谷にあった稚児岩の洞窟に閉じ込められたと伝えられる。

 恵便は、その後、仏教の師を求める蘇我馬子に発見され、飛鳥に戻り、蘇我馬子の師となったという。

 慧聰法師は、推古天皇三年(595年)に百済から来日し、聖徳太子の仏教の師となったとされる人物である。

 この石庭には、仏教が日本に伝わった時代に功労のあった3人の僧の碑があるわけだ。

 次に訪れた八千代区中村の安海寺は、その恵便法師ゆかりの寺であるとされる。

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安海寺

 安海寺は、真言宗の寺院である。境内に恵便法師の碑がある。木像恵便法師坐像も安置されているという。

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恵便法師の碑

 安海寺も法道仙人開基の寺である。恵便法師は、法道仙人よりも50年以上前の時代の人で、安海寺開創前の人物である。安海寺が恵便法師とどのような所縁があるのかは分からないが、法師が軟禁されていた場所と安海寺は近いので、自然と日本仏教の恩人である恵便法師を偲ぶ寺になったのではないか。

 安海寺本堂には、木造阿弥陀如来坐像があるが、ちらりと見ただけで写真に納めることは出来なかった。

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安海寺本堂

 さて、安海寺から北上し、多可町加美区的場にある金蔵寺(こんぞうじ)に至る。金蔵寺は、金蔵山の山上にあるが、驚くほどの急こう配を登っていかなければならない。幸い狭いながらも自動車道が通じているが、車のない時代には、金蔵寺に行くだけでも苦行だっただろう。

 金蔵寺は、修験道の祖、役小角(えんのおづぬ)の開山と伝えられる。笠形山に涌出した1寸8分の黄金薬師如来像が熊野権現の導きで金蔵山に移り、役小角が夢告によって当山を訪れ、白雉年間に開山したという。

 その後行基菩薩が堂宇を創建し、平安時代に慈覚大師が来山し再興したとされる。

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金蔵寺鐘楼堂

 本堂は、天保十三年(1842年)に焼失し、安政二年(1855年)に再建された。

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金蔵寺本堂

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本堂向拝の龍の彫刻

 金蔵山には、山中に修験者の行場、護摩場があり、毎年彼岸の中日には、修験者が集まり、柴灯大護摩供が行われている。

 ご本尊の薬師如来坐像は、天保十三年に金蔵寺が焼失した後、西宮の神呪寺(かんのんじ)から寄進されたものである。兵庫県指定文化財となっている。

 改めて驚くのは、東播磨飛鳥時代に開基した寺院が数多くあるということである。飛鳥時代東播磨は仏教の先進地域だったと言える。

 当時皇居のあった大和国に寺院が多く開かれたのは当然として、都のあった飛鳥から遠く離れた東播磨の山奥に、なぜ続々と寺院ができたのかは謎である。法道仙人と恵便法師が何らかの理由でこの地を選んだのだろうが、なぜ選ばれたのかが分からない。

 これからの史跡巡りで解き明かせたらいいなと思う。