静の里公園から北上し、淡路市志筑天神にある志筑(しづき)神社を訪れた。
志筑神社の鳥居前の辺りは、古墳時代後期の集落遺跡である天神遺跡が発掘された場所である。
天神遺跡のあった辺りから東への細い道を入っていくと、志筑神社の鳥居と参道がある。
この参道の突き当りに志筑神社がある。
志筑神社拝殿の扁額には、「天神宮」と書かれている。天神という地名と社名から、祭神は菅原道真公かと思ったが、そうではなくて大国主命と一緒に国土の開発を行った少彦名(すくなひこな)命であった。
志筑神社の創建はよく分かっていない。平安時代初期の延喜年間(901~923年)に成立した「延喜式」には、津名郡九座中の一座(小社)として記載されている。
志筑天神とも呼ばれていたので、菅公を祀っていたこともあったのだろう。
本殿の所々の神獣の彫刻が見事である。
本殿の木材は、木目が浮き出ていて美しい。
正応二年(1289年)には、時宗の開祖一遍上人が志筑神社を訪れている。「一遍聖絵」という絵巻に、その時の様子が描かれているという。
境内で一際目を惹くのは、巨大な楠である。「静之大楠」と呼ばれているようだ。
空に向かって羽ばたくように枝を広げている。畏敬すべき巨大生物だ。
また境内には、淡路出身の自由民権活動家、青木茂七郎の石碑がある。
青木茂七郎は、志筑の漢方医の家に生まれ、明治15年には淡路自由党に身を投じた。
明治24年の第一回帝国議会で、新聞社の反政府的な報道を抑圧する新聞紙条例の改正案が審議された。
その時傍聴席から議会に馬糞が投げつけられた。言論封殺に抗議する茂七郎の仕業であった。
幕末の尊王攘夷運動から明治の自由民権運動に、政治的エネルギーは変化していった。
戦後の議会政治の源流は、明治の自由民権運動にある。議会に馬糞を投げるのはどうかと思うが、先人達の努力には敬意を表したい。
茂七郎は、後に兵庫県会議員や志筑町長を務めたそうだ。
参拝を終え、参道を下ると、途中に志筑別神社という摂社があった。
小さな石の祠がある社だが、境内の巨大な楠がまた目を惹く。
志筑別神社の前には、阿弥陀如来を祀った極楽寺というお堂がある。
中央に大きな厨子があるが、その左右にも小さな厨子が並んでいる。どの厨子の中にも仏像が安置されているのだろう。
元々はもっと大きなお寺だったが、段々と規模が小さくなり、このお堂に全部の仏像が集められたのではないか。
極楽寺は、志筑神社の神宮寺だったのではないか。
志筑神社は後年、志筑郷第一の神社として尊崇されるようになった。
郷土で愛されている神社には、丁寧に頭を下げたいものだ。