摩耶山天上寺 中編

 摩耶夫人堂の東側に建つ金輪堂には、一字金輪仏頂尊を祀っている。

金輪堂

 一字金輪仏頂尊とは、覚りを開いた如来が、深い瞑想の中から唱えた真言「ボロン」の一字を神格化したものである。

 金輪堂には、自由に入って尊像をお参りすることが出来る。正面の一字金輪仏頂尊像は、彩色鮮やかな新しい像であったが、力強さを感じる御像であった。

 一字金輪仏頂尊の左右には、大悲胎蔵生曼荼羅金剛界曼荼羅が掛けられている。その更に左右には、真言八祖像が掛けられている。

 密教思想を現実化した空間である。

 金輪堂に入って左手には、四つの顔を持つ四面大日如来坐像や、八日大師像が祀られている。

 摩耶夫人堂の西側の奥には、伽藍神の釈帝権現が祀られている。

釈帝権現

 私は釈帝権現のことを、帝釈天のことだと思っていたが、それとは別の神様だろうか。インドの神様である帝釈天が、日本の神仏習合の思想から生まれた権現になるというのは、少し違和感がある。

 釈帝権現の西側には、壮大な金堂がある。

金堂

 金堂に上がって、祀られている仏像を拝観することが出来るが、拝観できるのはいずれも昭和51年の火災後に奉納された新しい仏像である。

 だが金堂の奥には、法道仙人が持参したとされている、高さ一寸八分(約6センチメートル)で金色の本尊十一面観音菩薩像が祀られている。

金堂向拝

蟇股の蓮の彫刻

扁額

 本尊の十一面観音菩薩像は、秘仏として三十三年に一度開帳される。この仏像は、摩耶山からの視界に入る、摂津、播磨、淡路、河内、和泉の守護仏とされているという。

 インドから仏道を弘めるために中国に渡った法道仙人は、既に中国に仏道が広まっているのを見て、東海に浮かぶ日本に渡海して仏道を弘める決意をした。

金堂前の枯山水

 法道仙人は、唐の都長安にある西明寺で、道宣律師から黄金の秘仏十一面観音菩薩像を預かり、来日した。

 孝徳天皇がおわす難波宮に来た法道仙人は、西北に五色の雲が棚引く霊山が聳えるのを感じた。

 そして、その霊山こそ仏法有縁の地であり、持参した秘仏を奉安し、仏法弘通の根本道場にするに相応しいと考え、孝徳天皇の勅命を受けて天上寺を開創したという。

摩耶山から淡路方面を眺める

 天上寺の境内からは、南西方面の眺望がいい。私が来た時は、生憎空気が霞んでいたが、雨上がりなど空気が澄んでいる時の眺望は抜群であろう。ここから眺めると、本当に摩耶山天上寺の本尊が下界を見守って下さっているような気になる。

 金堂の西側には、大正12年に建立された法道仙人の石像が安置されている。

法道仙人像

 法道仙人は、聖徳太子の次に日本に仏教を弘めた人物であるが、教科書にも載っていない、謎に包まれた人物である。

 法道仙人が開創したという寺院は、摂津、丹波、播磨、但馬、因幡に広がっている。  

難波宮から北西方向に出歩き、寺院を建立していったのだろう。

 天上寺では、本尊の十一面観音菩薩像をお参りする折に、仏足石、法道仙人像にも参るという慣わしがいつしか生まれたという。

 法道仙人像の北側には、一願地蔵が祀られている。

一願地蔵

 私は一願地蔵に史跡巡りの無事を祈った。

 更に北側には、密教学講伝所がある。

密教学講伝所

 この密教学講伝所の建物の北側窓の奥に、轟不動明王像が祀られている。

不動明王

 法道仙人が、仏法弘通の始まりの地と定めた天上寺で修法を行っていると、雷鳴と共に轟不動明王が現れたという伝説がある。

 以後轟不動明王は、峰々を飛行して求道者を守護する役割を担っているという。

 鐘楼の後ろには、石造の不動明王立像があった。

鐘楼

石造の不動明王

 忿怒の形相の明王たちは、安らぎと平穏を求める仏教の中に、力強さを齎した。幼少の伊達政宗が僧侶の説明を聴いて、自らも不動明王の如くありたいと願った逸事は有名である。不動明王は、人の中のある種の理想の姿を形に表したものだろう。

 私は天上寺の参拝を終えて境内から出た。

 入った時には気づかなかったが、寺の入口に巨大な御神木があった。

御神木

 御神木を見ると、ここは霊地だと感じる。

 法道仙人が難波宮から北西を望み、雲の間に聳える六甲山を見て、仏法弘通の霊地と見たというのは、如何にもあり得る話だ。
 高さ約6センチメートルの黄金の十一面観音菩薩像を持った法道仙人が、仏道を弘める志に燃えて、大化二年(646年)に六甲山(摩耶山)に登っている情景を、知らず知らず想像していた。