今日は、姫路市の東部にある御国野(みくにの)町の史跡を紹介する。
御国野町国分寺に、播磨国分寺跡がある。天平十三年(741年)、聖武天皇の詔により、全国に国分寺と国分尼寺が建てられた。
奈良時代の行政区分は、国である。播磨国には、播磨国分寺と国分尼寺が置かれた。奈良の東大寺は、全国の国分寺の本山という位置づけであった。その東大寺に、国家鎮護を象徴する巨大な仏像を設置したのである。
播磨国分寺跡のある御国野町国分寺は、地名に国分寺の名が残っている。かつては播磨国の官寺として威容を誇っていただろう。
今では、塔の礎石と、土塀や伽藍の基礎などを復元したものがあるに過ぎない。
かつての伽藍があった場所には、瓦を積んでできた基礎と、礎石のあった場所を示す丸い石がある。
当時の礎石がそのまま残っているのは、かつての塔跡である。
塔の礎石は、原位置に今も置かれている。この礎石の上に、高さ約60m、一辺約18.9mの七重塔が建っていたとされる。七重塔!奈良時代の民家群の中で、それはどれだけ抜きん出た輝きを放っていたことだろう。いかに聖武天皇が仏教に国家の威信をかけていたかが分かる。
南大門の北側には、中門があり、金堂があった。
金堂のあった場所には、今は牛堂山国分寺という寺が建っている。この寺は、寛永十六年(1639年)に、姫路城主となった松平忠明の菩提所として建てられた寺である。
牛堂山国分寺は、山門をひしと閉ざしており、拝観することはできなかった。丁度かつての国分寺の講堂のあった場所に、今の国分寺の本堂があるようだ。
姫路市埋蔵文化財センターには、播磨国分寺跡出土の瓦が多数展示してあった。
それにしても、広大な寺域である。聖武天皇の仏教による鎮護国家という思想は、空しくも後世に崩れていくことになる。
国分寺跡から北東に行くと、兵庫県下第2位の規模を誇る壇場山古墳がある。
壇場山古墳は、全長約143mもある前方後円墳である。
木が鬱蒼と茂って、古墳の形がなかなか判別できない。後円部の中央には、竜山石の石棺の蓋が露出している。
壇場山古墳は、5世紀前半の築造とされる。墳丘上からは、円筒埴輪などの埴輪群の遺物が採集されている。
大正10年に国指定史跡となったが、未だに本格的な発掘はされていない。
さて、壇場山古墳のすぐ北側には、山之越古墳がある。
山之越古墳は、5世紀中頃の築造とされる方墳である。一辺は約60mある。
この古墳も、石棺が露出している。
山之越古墳は、明治30年に発掘調査され、帯獣鏡、鉄剣、鉄刀、玉類が出土している。
なかなか古代の味わいを感じることが出来る「名墳」だ。名墳とは、私が思いついた言葉だが、誰か過去に使っているだろうか。
さて、次は、壇場山古墳から東に行った、御国野町御着(ごちゃく)にある、黒田家廟所に向かう。
御着には、かつて、黒田家が仕えた小寺家の居城の御着城があった。御着城は今は跡形もないが、姫路市役所東支所が、城らしい建物の形をしており、雰囲気作りをしている。
ここには、黒田官兵衛の顕彰碑が建っている。
この顕彰碑は、ごく最近に建ったものだろう。
奥に行くと、黒田家廟所がある。
左側が官兵衛の祖父の黒田重隆、右側が官兵衛の生母の明石氏の供養塔である。この二人が亡くなった当時からここに建っているのではなく、享和二年(1802年)に、福岡藩黒田家がこの地に建てた供養塔である。
当寺の福岡藩黒田家の藩主が、かつて祖先が出たこの御着の地に建てた記念碑のようなものだろう。
戦国時代の播磨の大名は、織田軍と秀吉にやられっぱなしで、乱世の英雄と呼べる人物が出ていない。唯一全国的な知名度を誇るのが、黒田官兵衛孝高だが、戦国大名として自立して領地を広げていった人ではない。
もう少し官兵衛が早く生まれていれば、織田軍が播磨に来る前に播磨を統一していたかも知れない。
しかし、歴史にifは厳禁である。そういう思考実験は何も生み出さない。やはり官兵衛は、秀吉の軍師となった方が力を発揮できたと考えるべきか。