姫路城の南東に、射楯兵主(いたてひょうず)神社がある。ここは、播磨の国16郡の神々を祀っているので、播磨国総社とも呼ばれている。地元では単に「総社」と呼ばれることが多い。結婚式場としてもよく使われる。
この神社の本殿には、射楯大神と兵主大神の二柱の神が祀られている。
射楯大神は、五十猛命(いそたけるのみこと)とも称し、素戔嗚命の息子とされる。日本中に檜や楠を植樹して、日本の森林を作ったとされる神様である。
兵主大神は、大己貴命(おおなむちのみこと)とも称し、過去に紹介した播磨国一宮の伊和神社の祭神伊和大神と同一神とされる。
いずれにしろ、出雲の匂いを強く感じる神社だ。
因達(いだて)と称ふは、息長帯比売命(中略)渡りましし時、御船前に御しし伊太代の神(射楯の神)此処に在す。故、神の御名に因りて、里の名と為す
とある。
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)は、神功皇后のことである。射楯大神は、神功皇后が朝鮮征伐のための航海をした際に、皇后の乗る船に下りて来たらしい。瀬戸内海沿岸には、神功皇后の朝鮮征伐説話由来の神社が多数あるが、この神社もその一つである。
因達里は、現在の姫路城北西部にあたるとされる。当時はこの辺りまで海が迫っていたのだろう。
また、社伝によれば、欽明天皇25年(564年)6月11日に兵主大神の影向(ようごう、神や仏が仮の姿で現れること)があり、飾磨郡伊和里水尾山に、大己貴命(兵主大神)を祀ったと伝えられている。
飾磨郡伊和里は、現在の姫路市街の中心部を指すと言われている。伊和大神を祀る伊和の一族が、今の姫路まで進出してきて、伊和大神を祀ったということなのだろうか。
社伝では、寛平三年(891年)に、兵主大神に射楯大神を併せ祀り、射楯兵主神社と号したとされる。
本殿の屋根を見ると、南側に向かって小さな屋根が二つ抜き出ており、ここに二柱の神が祀られていることが分かる。
また、養和元年(1181年)に、射楯兵主神社に播磨国16郡の名高い174座の大小明神を合わせ祀り、播磨国総社と称するようになる。
そういえば、伊和神社にも播磨国16郡の神々が祀られていた。この2つの神社は、兄弟のように似ている。
射楯兵主神社の特色ある祭りとして、一ツ山大祭と三ツ山大祭がある。
一ツ山大祭は、60年に一度(次回は2047年)、三ツ山大祭は、20年に一度(次回は2033年)行われる祭りである。
兵庫県立歴史博物館に展示してあった、三ツ山大祭の写真を見るとイメージを掴みやすい。
三ツ山大祭では、写真のように、高さ16メートルの三ツ山を作り、それを神々の依代(よりしろ)にする。
三つの山はそれぞれ二色山/五色山/小袖山と呼ばれ、二色山には播磨国の大小明神、五色山には九所御霊(くしょごりょう)大神、小袖山には天神地祇(国中の神々)をお迎えする。
三つの山にお迎えした神々を、本殿の射楯大神、兵主大神が、この時特別に神門の屋根の上に設けられる門上殿でお出迎えして、共に国の平安と発展を祈る。
一ツ山大祭では、山を一つだけ作り、そこに神々をお迎えする。藤原純友の天慶の乱の平定を祈るために始められたそうだ。
伊和神社でも、一ツ山大祭と三ツ山大祭が行われるが、こちらは一ツ山大祭が21年に一度、三ツ山大祭が61年に一度行われる。
射楯兵主神社の三ツ山大祭の三ツ山は、伊和神社を囲む三つの山、白倉山、花咲山、高畑山を象っているとも言われる。
こうして見ると、兵主大神は、やはり宍粟郡の伊和の地から姫路に進出してきた人々が祀ったのだろう。
この三ツ山大祭は、天文二年(1533年)に、播磨国守護職赤松晴政の下知により、二十年に一度行うことが定められたそうだ。
赤松氏は、関ケ原の合戦で消滅してしまった播磨の名族だが、播磨の文化財や祭りの由来には必ずと言っていいほど顔を出す。播磨の文化には、赤松氏の影が付き添っている。
境内には、他に、源頼光(みなもとのよりみつ、げんらいこう)が大江山の鬼退治をした時に持って帰った鬼の首を埋めた場所にある「鬼石」や、姫路城天守に祀られる長壁大神を祀る長壁神社がある。
射楯兵主神社は、昭和20年の姫路空襲で、社殿や社宝が全て焼けてしまった。残ったのは、神社の南側に建つ、慶安五年(1652年)に名君榊原忠次が寄進した石造鳥居(最初の写真)くらいである。
今の社殿は、昭和28年ころに再建されたものである。境内西側に建つ朱塗りの総社御門は、平成18年に再建されたものである。
射楯兵主神社の神紋は、赤松氏と同じ「二つ引両」と「三巴紋」である。
伊和大神と赤松氏という、播磨ゆかりの神と武家に関係の深い射楯兵主神社だが、是非、2033年に行われる次回の三ツ山大祭を見てみたいと思った。
それまでの我が国の平穏を願うばかりである。